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「運命は、つくれる?」—書籍との運命的な出会いを、計画的に作れないか考えてみた

「この前久しぶりに本屋に行ったら、買おうとも思ってなかった本を、つい買っちゃいそうになったんだよね」

先日、友人がそんな話をしていました。きっと、似たような経験をした人、多いんじゃないでしょうか。

運命を計画的に作ってみたい

なぜ、本屋に行くと、買うつもりのなかった本を買ってしまうのか。

そこには「運命的な出会い」があるからでしょう。

なんとなく表紙やカバー、ポップに惹かれて本を手に取り、出だしの一行目やパラパラとめくった先に現れた一節に心を奪われ、「この本との出会いは運命だ!」とか「この作者は今の俺の気持ちを代弁している!」という気持ちになる。いざ、返って読んでみるとその面白さにのめり込み、これは「運命の一冊だ」と記憶される。

この一連の「運命的な体験」を味わいたくて、僕らは本屋に足を運ぶ。

友人の話を聞きながら、ふと思いました。「運命的な出会い」を買い手に悟られないよう計画的に作ることはできないのか、と。もし、これがビジネスモデルとして確立できたらAmazonなどとは違った勝ち方ができると思います。

さて、いろいろ考える中で、「運命的な出会い」と感じられるためには、三つの絶対条件があると気づきました。

一つ目は、読み手が無目的な状態であること

人が本屋に行く状態は大きく二つに分けられます。「目的の本が解っていて、その本を買うために本屋に行く状態」「買う本は決まっていないけど、気晴らしやなんらかのヒントを求めている状態」。

前者は買う本が決まっているので、本屋である必要はありません。むしろ、Amazonなどで安く手に入れるほうがいい場合もある。目的に最短距離でたどり着くことを考えれば、移動や探すコストのかからないほうがいいですからね。たまたま宅配を待っている時間が無いほど急であれば話は別ですが、それでもKindleなどで代替可能です。

一方、後者の場合は本屋でなければなりません。なぜなら、検索という行為が目的ではなく、何かに出会う体験が目的だから。「何が欲しいか解らないけど、何かいい出会いがあるといいな」という答えの仮説の解像度がめちゃくちゃ粗い状態。ゴールのイメージがついていないなら検索のしようもありません。

まず大前提として、無目的な状態が運命を作る下地になります。

二つ目は、読み手が興味・関心の範囲外に触れられる環境があること

今度は、売り手側の話です。

「良い出会い」を求めている人は往々にして、本屋をぐるりと一週するはずです。本当に興味の無いジャンルは素通りするかもしれませんが、それでも「何か面白い本がないかなと」目的意識が強いときより丁寧に棚を見るはず。

いろんな棚をじっくり見ていると、本の表紙やタイトルが目に入ってくる。そこでびびっと惹かれることが「運命的な出会い」のトリガーになるわけですが、この出会いっていうのは自分が最も興味・関心のある分野以外のところのほうが起こりやすいと思っています。

例えば、普段は仕事でマーケティングをしているけど、哲学の棚を見てたらびびっときた、とか。

なぜなら、他のジャンルの本に触れることは、自分の抱えている悩みを別の角度から問われることにつながるからだと思うんです。自分でも気づいていないインサイトに気づく。言語化されていなかったものが言語化される。そうした「発見」は、普段の生活と近いジャンルの棚ばかり見ていても見つからない。

Amazonは購買履歴に合わせていろんな本をレコメンドしてくれますが、決して自分が知っている興味・関心の範囲からでることはない。

また、「自分から出会いに行ける」ことも重要です。内田樹さんの「街場の文体論」の中で「本と目が合う」体験についてこんなことが書かれています。

「宿命の本」になるには、「他の人たちがその価値に気づかなかった本」に自分たちだけが出会ったという物語が必要になります。だから、誰かに勧められたわけじゃなくて、自分が自然にその本に惹きつけられたという物語が必要になります。そのためにはとにかく「偶然の出会い」じゃないといけない。偶然じゃないと、宿命にならない。

三つ目は、中身が読めること

タイトルや表紙で惹かれたとしても、そのままジャケ買いする可能性は低いでしょう。少なくとも、パラパラとページをめくり、そこで「運命の一節」に出会うことが肝心です。

でも、「運命の一節」なんてそんな簡単に見つかるのか、という疑問もあるでしょう。僕は見つかると思っています。なぜなら、本を手に取った時点で、潜在的な自分のニーズに何かしら合致していると感じているから。そして、「運命の一節」になるためには、その一節が書かれている文脈よりも、読み手の文脈の中の解釈が大事になるから。

その一節に自分が開いて出会ったというプロセスが重要なんです。ひょっとすると、本を開くという行為に対して、何かを切り開く運命的なメタファーを感じるのかもしれません。

やっぱりこれも、電子書籍やAmazonではできません。

この三つの条件がそろったとき、「運命的な出会い」を作れるのではないでしょうか。

「運命的な出会い」とは「思考のスキップ」である

ところで、人はなぜ「運命的な出会い」を求めるのか。それは、思考せずに答えが手に入るからではないでしょうか?

人は、自分が費やした努力に対して、その努力よりも大きな成果が手に入ると喜びます。逆にめちゃくちゃ考えたり頑張ったのに、たいした答えや成果が手に入らないと落胆します。

つまり、「運命的な出会い」とは、ほぼ努力なして、自分の人生を好転させてくれるような可能性を与えてくれる装置なんです。なんとなくで本屋に入ったら、自分の人生が上振れするきっかけに出会える。しかも、誰かに勧められたわけではなく、自分でそれを見つける。そりゃ夢中になります。

再び内田さんの引用ですが、運命的な出会いについての一節を。

僕たちは自分が何を探しているのかわからないままに、読むべき本を探す。ですから、本と出会った瞬間に「あ、私はこの本が読みたかったんだ」というふうに事後的に、遡及的に欲望が形成される。「ずっとその本をさがしてきた自分」の像がその本と出会った事によって焦点を結ぶ。

「運命的な出会い」だと決めているのは、読者自身というわけです。

運命を生み出す本屋という提案

ここまで、「運命的な出会いは作れる!」ということを述べてきました。

僕はこのプロセスに少し手を加えることで、本屋での購入率を上げれるのではないかと考えました。

それは、全ての本に「運命につながる補助線」を引いてあげることです。

運命だと感じるためには、本の自分ごと化が必要。であるならば、全ての本に薬の処方箋のように誰に対してどんな効能があるのかをポップやしおりなどで記してあげるんです。

だから、本を仕入れるときも、「これはどんな人に読んで欲しいのか」をめちゃくちゃ考えて仕入れる。1:1の体験設計が出来ている本屋さんってそんなに多くないと思うんです。

ただ、補助線のセンスは結構求められるなと思っていて。「これが答えですよ」っていうのが見透かされちゃいけない。あくまで、読者が自分で答えにたどり着くことに価値がある。また、補助線が強すぎると、そのフレームで本を捉えてしまうから、読み手にバイアスがかってしまう。

「もしかして自分のこと言ってる?」とそこはかなくとなく匂わせる文句をつけられたら、あとは読み手が運命を作り出して買ってくれるんじゃないでしょうか。

おわりに

僕個人がめちゃくちゃ本屋が好きで、ただでさえ本屋が危ないと言われ続けているなかで、さらにコロナという状況が追い打ちをかけています。

なんとか、自分なり本屋を救えないかなと思って拙い企画ではありますが、考えてみました。

新しい仕組みをつくることで、本屋という空間がこの先もずっと残って欲しいなと思います。


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