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佳い「書き手」は、佳い「聞き手」である—「取材・執筆・推敲――書く人の教科書」を読んで—

ライターの古賀史健さんの最新の著書「取材・執筆・推敲――書く人の教科書」を読んで、もしタイムマシンがあったら過去に取材している自分一人ひとりをかき集めて説教したいという気持ちになった。

敏腕ライターの先輩に教えてもらったこの本は、480ページという大容量だったが、一日で読み終えてしまった。古賀さんの圧倒的な構成力が土台にあるのはもちろん、「これを今読み切らなければならない」という強迫観念のようなものがあった。なぜなら、そこに書かれていることは、自分の取材態度の甘さに喝を入れるものばかりで、一刻も早く書いてあることを吸収して、態度を改めなければならないと思ったからだ。

本書は、取材・執筆・推敲のそれぞれの段階において、ライターがどんな態度で臨むべきかを書いたものだ。最終的に出来上がる文章をより良いものとするためのテクニックも書かれているが、この本の一番の価値は、終始「そのスタイルで良いのか?」と古賀さんに問いかけられている気持ちになることだと思う。

本の主張は一貫して「相手の話を聴け」ということだ。それは、取材の場に限らない。書いている時も、推敲している時も、はたまた文章に取り掛かっている時以外、朝起きてから寝るまで、身の回りを観察し、そこから発せられるメッセージを観察し、聴きとらなければならない。

「相手の話を聴け」というメッセージが特に強く発せられているのが、「取材」についての項目だ。「いやいや、取材なんだから、相手の話を聞くのは当たり前だろう」と思うかもしれない。最初は自分もそう思った。だけど、読んでいく中で、いかに自分が相手の話を聴いていないかの証拠を、赤入れの入った原稿のように突きつけられた。

というのも、自分の取材における態度は、「聴き手としての態度」ではなく、「書き手としての態度」だったからだ。

取材は「素材集めの場」ではない

ライターの仕事とはなんだろう。(ライターの定義は幅広いと思うので、ここではインタビュー記事やゴーストライター的な仕事をしている人とする)

当然、インタビュイーの話をまとめて、一つの記事や本にすることだ。だけど、古賀さんは言う。「書き手」の態度を取材の場に持ち込んではいけないと。

僕自身、取材記事を書くことを初めて4年くらいになる。一対一の取材も対談も、イベント記事も書いてきた。この中で特に苦手なのがイベント記事だった。

なぜなら、話がどう転がっていくか、自分ではほとんどコントロールできないからだ。(そもそも、取材の場にコントロールという概念を持ち込むこと自体、本末転倒なのだが、当時はそれを理解していなかった)

一対一の取材は、基本的に自分が質問をして、相手に答えていただく。少し話が脱線しても軌道修正できるし、取材のテーマからずれないように質問を調整することもできる。面白そうなエピソードが出れば、それを膨らませることもできる。つまり、自分で取材の流れを調整しやすい。

一方でイベント記事はモデレーターでもない限り、イベント自体に介入することはできない。モデレーターを務める方がどこで話を広げるかもわからない。また、会話というのは自分でも気づかないうちにロジックが飛んだりするため、その間が解明されなかったことに、イベントが終わってから気付いたりする。対面の取材に比べて、全体を通したエピソード間の繋がりがふわっとしたまま終わることもある。

だから、イベント記事こそ書き手の筆力がかなり求められるのだが、本当に情けないながら、自分はその筆力の足りなさを、イベントがアンコントローラブルであることにすり替えていた。

一対一の取材にせよ、イベントにせよ、僕は「自分の理想とするアウトプットのために都合の良い素材集めの場」と捉えてしまっていた。 

だが、本来それはおかしい。

取材の醍醐味は、「何が出てくるかわからないこと」のはずだ。それを読み手が引き込まれるように料理するのが書き手であって、そもそも素材がダメだから書けませんというのは、書き手失格だろう

さらに言えば、どんなエピソードでも文脈によって面白くなる。このエピソードは使える、このエピソードは使えないと判断するのは書き手の傲慢だと古賀さんはいう。

取材を「原稿の素材集め」と考えるライターは、自分でも気づかないうちに 傲慢 になってしまう。相手の話に耳を傾けながら、ずっと「この話は使える」「この話は使えない」の評価・判断を下し、使えない話については文字どおりの 馬耳東風 になってしまう。

(中略)

もしもあなたが「評価する人」として現場に臨み、素材の「 獲 れ 高」ばかりを気にしていたら、コミュニケーションはうまくいかないだろう。

良い「聴き手」であれ

古賀さんは、取材の場では「書き手」としての自分を切り離し、ひたすらに「聴き手」であれと説く

相手の話にとにかく関心を持って、広げていく。そのためには、相手に全力で興味を持たなければならない。興味を十分に持てないということは、自分の中でその人に話を聴く理由が腹落ちしていないことを意味する。

以前、取材とはその人にしか聴けないこと、その人だからこそ問うべきことを聞く場だ、と聞いたことを思い出した。自分の中で、なぜその人に話を聴くべきかがわかっていれば、全てのエピソードが面白く聴けるはずだし、もっと聴きたいという欲求も自然と沸き起こるはずだ。

そう考えると、取材とはすでに取材に入る前から始まっているのであり、もっと言えばテーマを決めたり、取材に参加すると決めた時点から始まっている。

テーマについて理解を深めたり、他の人はそのテーマに対してどう考えているのかを調べていくと、必然的に問いがどんどんと生まれていく。そうして生まれた問いは、「こんな面白いエピソードを聞き出そう」という自分本位の欲求はなく、「純粋にどう考えているのか」というものであるはずだ。さらに言えば、相手の考えを深堀りしていけば自ずとその考えに至ったエピソードも出てくるはずだ。

実際、僕もこの本を読んだ後の取材で、ひたすら「聴く」ことに徹してみたら、いつもより取材の空気が良かった気がするし、結果的に自然とその人らしい話が溢れる取材となった。

自分は取材を取材の場だけの話だと考えて、その場を都合の良いようにコントロールしようとしてしまっていた。だが、取材とは面接ではなく対話だ。相手から自分の欲しい情報を引き出すのではなく、相手がどう思っているかに耳を傾ける場だ。

最終的に読者が読みたいと思うコンテンツに仕立て上げることはもちろん大事だ。だけど、「書き手」である以前に良い「聴き手」であること。あなたの話が聞きたいのだ、と全身で示すこと。相手の中から言葉を掘り起こすのではなく、相手から降ってくる言葉のシャワーの中から、雨粒を拾っていく。そんな姿勢をまず前提として身につけれなければならないと、本書を読み終えて悟った。

まるで座禅体験のように、自分の所業を振り返り、肩を叩かれまくられるような読書体験だけど、とてもおすすめの一冊だ。


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