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「不適切にもほどがある!」と「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」は誰のためのドラマなのか

2024年1月期にスタートした2つのドラマ。宮藤官九郎作「不適切にもほどがある!」(ふてほど)と練馬ジム原作の「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」(おっパン)
どちらも昭和の価値観を持ち合わせた中年男性が、令和の価値観に触れ、変化していく様子が描かれます。並べて語られやすいですが、誰のための作品なのか、目線も、アプローチの仕方も全くもって異なる面白い結果になったと思います。

放送されるや否やSNSで話題をかっさらっていった「ふてほど」
周りでは数話見て離脱した人たちがいました。わたしも違和感を抱えながら、行き着く先を見守るべく最終回まで粘ってみました。
最後まで見て言えることは、このドラマはマイノリティや弱い立場にある人、傷ついている人たちのための作品ではない、ということです。むしろ声を出して「息苦しい」「つまらない」「不自由だ」と言える人たち側の作品だと思います。コンプライアンスにがんじがらめになって身動きが取りづらくなっている人たちの話。そして作品を作り、届ける人たちの話。とは言うものの、インティマシーコーディネーター(IC)の描き方を見ると、ICを担っている人たちや、本気でその問題に取り組んでいる制作者を、ぞんざいに扱っているようにも感じてしまいました。

「昔はこうだった」から始まり、「昭和も令和も生きづらいよね」「寛容が大事だね」へと向かったのは納得もできるけれど、そこで止まってしまうのか…という気持ちもありました。
わたしは昭和が悪で令和は生きやすいと思ったことはないし、今存在しているコンプラの全てが正しくて必要だとも思っていません。ネットでの過剰な反応が爆速でキャンセルに発展する異常さも感じています。世間の声に敏感になって、取ってつけたような配慮が垣間見える、誠実とは言えない作品や会社があるのも事実です。
けれどどれもこれも必要な痛み、というか摩擦だと思うのです。昭和の家父長的な価値観の中で、抑圧されて蔑ろにされて傷ついてきた人たちがいる。今でも全ての人の声が反映された社会とは、とてもじゃないけど言えない。それでも少しずつ、痛みを伴いながら、それぞれが模索している段階にあるのではないでしょうか。
「ふてほど」は、その過程で感じる息苦しさを解放できるドラマだったのだと思います。しかしそれ以上に、父と娘の、家族のお話で、身近な人と過ごす今を大切にするお話でもあった。だからこんな乱暴なやり方で、変容していく価値観や、浸透していない議論を食い込ませなくても良かったのではないか。ドラマの中で雑に扱ったことで、真剣に取り合わなくてもいいことのように映るので、実際に同じような問題に直面している人たちや、真剣に闘っている人たちに対して真摯な態度ではなかったと思います。

「価値観がアップデートできなくても片方が寛容になれば付き合える」「寛容になろう大目に見よう」「ちょっとのズレならグッとこらえて多様な価値観を受け入れよう」
ここには現に傷ついている人たちや、自分の声が届かない人たちの存在がすっぽり抜け落ちているように思います。そもそもこうやって価値観が変化してきたのは、今までわたしたちが聞いてこなかった、聞こうとしてこなかった人たちの声が届くようになったからです。それなのにその人たちの存在は見えてこず。許して、許されれば生きやすくなるよね、と言うのです。意図せずとも誰かを傷つけ踏みつけている人を、傷ついている側が広い心で受け入れる必要はないし、きっとそんなことも言っていない。
では誰が誰に対して寛容でいよう、と言っているのか。それはこのドラマを楽しめる状況にある人たちに限定されるのだと思います。「あのおっさんまた言ってるよ」とか「そういう価値観もあるのか」と流せるくらいに余裕がある人たち。苦しくなって、見ていられなくなった人たちはここには入っていない。そういう意味で強くて狭いドラマだと思います。
抜け落ちている、といえば、途中から渚に子どもっていたっけ?と錯覚するほど子どもの存在が描かれないとか、タイムパラドックスもへったくれもないくらい過去の自分や関係者に絡みまくるのに、震災の運命は受け入れるんかい、などなど思いましたが、そこもまあ寛容であればいいですか?

まあなんだか....大丈夫だよ。と言いたいです笑
昭和を生きてきたあなたたちの人生を否定していないし、なかったことになんてしていない。阿部サダヲ演じる小川さんも、令和で過ごした結果、昭和のおかしい部分と生きづらさに気付きます。つまり小川さんはそういう時代だったから昭和的な人だったわけで、本質はそこにはなかったということです。生きてきた環境や時代によって自分に根付く価値観は異なる。それは、人は変わることができる、という希望にもなるし、だからしょうがないよね、という言い訳にも使える。「どの時代も生きづらいから寛容になろう」に落ち着く前に、自分の生きづらさの解像度を上げて、誰かや何かを攻撃するのではなく、ただ言葉にしてみたら良いと思う。自分の生きづらさに向き合えたら、他人に与えた影響や傷にも向き合ってみてほしい。それからようやく、「お互いに寛容になろう」と言い合えるのだと思っています。もうこれ以上、傷ついている人を置き去りにしたり、真剣に向き合ってる人を軽く扱ったりするのはやめようよ、と思います。

反して「おっパン」では…
「そういう時代だったから、と自分を擁護することはできるけど、その価値観を押し付けられた相手は嫌な思いをしなかった、とは言えない。だから本当は謝らなきゃいけない。でも全員には謝れないし、そもそも思い出したくない人もいる。だからせめて自分を変える、変えなきゃいけない。」
第6話で原田泰造演じる誠から上司に向けられた言葉です。
生きてきた時代を否定せず、それでも部下や家族に嫌な思いをさせてきた事実に目をつむってはいけない。そんな自分と向き合わなくてはいけない。と真っ直ぐな言葉で訴えます。どんな時代だったとしても、たとえ自分も居心地の悪さを感じていたとしても、それが人を傷つけて許される理由にはなりません。
そんなことで傷つかなくたって....。その敏感さに過剰な配慮を強いられていて窮屈だ。と思う人がいてもいいと思います。けれど人の内面の強さや深さは他人には推し量れないし、なんとなく存在する"普通"や"当たり前"の箱に押し込んではいけないと思います。一対一で人と向き合ったとき、片方が我慢し傷つく関係は健全とは思えません。どちらも小さな摩擦を感じながら、ちょうど良さそうな場所を手探りで探していければいいと思うのです。そこにはもちろん寛容さも必要だし、敏感であることや想像する力、そして何よりリスペクトが必要だと思います。目の前の人を1人の人間として対等に扱うことに時代や立場は関係ないはずです。

「おっパン」の全てを信じて賞賛しているわけではないです。
二回り以上年下のゲイの友達(大地)ができたことがきっかけで、誠が急速にアップデートしていく様子が描かれます。この展開の速さやスムーズさに都合の良さを感じた瞬間もありました。しかし後半からは、大地がマジョリティには存在しない障壁に何度も道を阻まれる現実も描かれます。誠は、大地の友達として、どこまで踏み込んで良いのか悩みながら、自分にできることを探し続けます。一方向の関係から双方向の友情に変化していく過程に安心感を持てました。
大地が誰の言葉も笑って受け止められるのは、これまでにたくさん泣いてきたからだろう、と想像する誠の変化。人は人の裏側や奥行きを想像して尊重することができるのだなと、信じて良いこともあるよな、と思えました。
大地を含めた誠の周りの人たち、職場や家族、家族の友達、友達の家族…にまでフォーカスを当て、深いところまで寄り添うやさしさも嬉しかったです。誠の息子・翔は学校に行けない期間がありましたが、家が安心できる居場所になってからは外の世界へと逞しく進んでいきます。彼は男らしい、とされるものより、かわいくてキラキラしてふわふわしたものが好き。同級生の男子たちが女子をモノのように扱うことや、体型について口にすることが耐えられない。翔はいます、現実社会にも。彼は「ふてほど」の世界ではどうなってしまうのかと考えると恐ろしいですね。

わたしは翔や大地のような若い子たちが、やさしさに触れながら自分らしく生きていける社会を望んでいます。傷を抱えている人のその傷跡を無視したり、軽視したりしたくないです。
わたしの価値観が古くて厄介なものになる日もきっときます。それでもその度に、自分と向き合って、目の前の人と向き合って、もがきながら変わっていければいいと思います。

そんなわたしの思いを肯定し、一緒に歩むぜ!と言ってくれたのが「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」でした。
色んなレイヤーの作品が世に出る機会があるといいなと思います。その中で活発で健全な議論が巻き起これば最高だし、停滞した空気が入れ替わっていけば息がしやすくなる人も増えるはず。来期のドラマも楽しみにしています!


いほり

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