自信①

10代後半から20歳までは「自信」がなくて、とにかく「自信」を手に入れて安心したかった。

生来ネガティブで心配性な気質のくせに面倒くさがりで詰めが甘いところがあるので、何をしても突出できず、それに悩み続けていた。
中高時代は分かりやすく人から認められる勉強と部活を頑張ることで、「優等生」「努力家」という称号を手に入れて心の平穏を守っていた。(この時点で感じていた「自信」は優越感である。小さな学校の偏差値というショボい基準のみで判断された世界で泳ぐ、井の中よりも小さい蛙であった。)

しかし、その平穏も高校2年で終わった。身体的に病気になったことで「普通」のことが出来なくなった。学校に行かない、勉強をしない。「大学受験」という高校生にとっては最大の自尊感情向上イベント(当時の私的には。純粋に夢を叶えたい学生も沢山いることは重々承知)
のために覚えた英単語や古典単語、数学の公式などは記憶から消えていった。部活で鍛えた筋肉も脂肪に変わった。
少しずつ積み重ねていった「自信」はあっさりと崩れ落ち、大学受験に躍起になった教師陣の視線は冷ややかだった。

予備校の先生は偏差値順にリスト化された表を取り出して私の低下し続ける偏差値ラインに並んだ大学にマーカーを引いた。
「とりあえずこのへんでセンター入試利用作戦」を実行し、数ヶ月後に大学生になる。

大学生になれたからといって失った「自信」は戻ってこない。大学図書館の書籍検索端末で「自信」「自尊心」「精神」などのワードで検索しては、心理学専攻の棚の本を読み漁ったが救われなかった。
本とは麻薬のようなものだ。心に響いた本は一定期間は効くが、暫くすると効果は消えて、より強い言葉や思想を欲してしまう。

「自信が欲しい」「今の自分で大丈夫だと思いたい」ー 寝ても覚めてもそんなことを考えていた。
考えに考えて辿り着いた先は「『自信』という言葉があるから考えてしまう」ということだった。
「自信」という言葉、概念を自分の辞書から完全に消そう。言葉が無ければ考えることもない。これ以上自信のない自分に振り回されることもない。
「自信」に伴う「自尊心」「自己肯定感」も同時に消した。

この時期、みうらじゅんさんにハマり始めていた。みうらさんは「自分探しではなく、自分なくし」を提唱している。彼の仏教的な無常の考え方は「自信」を自ら消去した自分と重なるところがあった。

このようにして約5年にも渡った「自信探しの旅」は「自信なくし」によって終わったのであった。

しかし近頃、再び「自信」について考えている。

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