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円相ゆえに善と悪は等価

こんにちは、領です。

人という現象が消滅する地点を「悟り」としています。
人という現象に伴う時空も消滅します。一切が滅するゼロ地点が「悟り」です。

「悟れなかったらどうしよう・・・」という心配は必要ありません。
一切はこのゼロ地点に至る構造だからです。さらに中心点という形で、常に私たちはゼロ地点に接しています。

縁起縁滅の法(万物の理論)に従って避けようがなく物理的にゼロ地点は存在します。悟りに至る人は一定数いて、方程式に従って存在します。

人という現象のゼロ地点は、時空上にいくつも現われますが、唯一として存在する構造となります。このゼロ地点を介して全ては円環状に繋がりを持つ構造です。

円環状の繋がり+善と悪は等価=円相

この式、今書いてて思いつきました(,,>᎑<,,)
これからも何かと伝える言葉が変化するかもしれません。
この式「やっぱり違うな・・・」と思うかもしれないです。
あと、ゼロ地点と言うより電子・陽電子の対消滅でエネルギーになる構造です。

人の現象は、円相に従ってしまう。従うしかない。「従う」という動詞ですらなく、そうなる模様です。コーヒーに溶かしたミルクの展開・・・物理に従うという意味の「従う」です。
そこに善も悪もないです。

人間の振るまいに対して善と悪の解釈が、円相の物理に従って現われるだけです。
「自由意思」というものも、ただの現象であって人が想像するような確固とした「自由意思」というものは存在しません。
「自由意思」も円相の物理を超越したものではありません。
「自由意思」があるという思考が展開しているだけです。

引力と斥力に善悪はないです。
N極S極に善悪はないです。
善と悪に円相の物理を超越した善悪はないです。

人という現象が、善と悪の両極によって円形になることは、円形加速器の電子が、N極S極からなる偏向電磁石によって円形に加速することと同じレベルで「両極が等価」の現象です。(善悪と書きましたが相反する作用のことです。)

人という現象は、円相の物理の操り人形です。
「自由意思」という感覚が付いた人形です。

ある地点で「自由意思」「意識」「人という現象」は、消滅します。

五蘊皆空
五蘊は、色受想行識、「識」(意識)も空に潜在します(消滅)。

引き継がれる個人の「意識」「魂」というものは虚妄の内ということです。

何が言いたいかというと
「人という現象」「善悪」は、円相の物理に従って仮に現われるものでしかないということです。

欠けることのないまん丸の円相です。
「人生プラマイゼロ」と耳にしますが、その人に合った世界・心理の展開が生じる構造です。
「人生プラマイゼロ」を納得するには色々な角度から観ないとわかりにくいです。プラスだけを引き寄せ続けることは、不可能です。
身体感覚の快不快は、プラマイゼロです。

快の身体感覚を善、不快の身体感覚を悪(逆の人もいます)としたとき、円相を完成させるように善悪が世界・心理に現われます。
円相の完成が悟りです。

この構造は、善意・愛情が人生に配置されるとき、悪意・嫌悪が配置されることは避けられないということです。
「憎ませてくれてありがとう」「憎んでくれてありがとう」ですらあったりします。
「愛すること」「愛されること」と相依相関しています。
快・善のみを享受することは構造上不可能です。

「自分の良心に従って生きていれば大丈夫」は、「そうすれば自分の思い描く安心だけが得られる」ということは不可能です。

「霊性を無限に進化させる」という一方向に行くことは不可能です。

状態が純粋な人ほどその真逆の人を引き寄せます。誰もが認める善意の人が無残に殺されることもあり得ます。

善と悪が等価で、「善のみが欲しい」ということが不可能なとき「一切皆苦」だと私は感じます。

この世の一切の出来事は、存在を現わし維持するために全て平等に必要です。

「だからヘイトクライムをあるべきものとして諦める」×
これは違います。
「諦める」ということはよく耳にします。
「怒りを消す方法・苦しみを消す方法」
怒りと苦しみは、この世の展開と維持に避けようがなく存在するものです。
怒りと苦しみを解消する方法は、それを感じ尽くすことです。苦しみは特に避けたい感情なので、避けずに向き合うというのは難しかったりしますが・・・。

善と悪に分けるのではなく、それらは相依相関し、等価だと観ると円相は完成します。
円相の完成には、両極が必要です。

コップに水が半分入っています。
「もう水が半分しかない」「まだ水が半分ある」
「まだ水が半分ある」が推奨されがちですが円相を前に等価です。

幼い頃、空を見上げたとき、私の目線は無限に伸ばすことができると考え不安を覚えました。円相は何だか安心感があります。

ここまで書いてきて、一番書きたいことは、「全て自分という構造」ということです。

人という現象は、円相の物理の操り人形ということを改めて書いてみました。円相の物理に従う模様という表現もできます。
そのような理解を持ちつつ、人生の苦にのたうち回っているのは私です。
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ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。

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