テレビはいつ死んだのか?

テレビがつまらない、がもはや驚かない

「テレビがつまらない」、という論調はかつてどこか喧嘩を売っているような論調に受け止めていた頃があった。しかし、今「テレビがつまらない」と叫ぶこと自体が「何、今更言ってんの?」感すら漂う時代である。

と、考えた時に「テレビはいつ死んだのか?」が気になる。いつからパワーダウンしたのか?いつから時代の最先端ではなくなったのか?2011年の前の時点で作家の佐々木俊尚氏は「2011年新聞・テレビ消滅」を訴えており、その前にすでに兆候は出ていたと見るのが妥当だろう。

事実、テレビの現場では「コンプライアンス」が叫ばれ、Twitterの発展と共に「やらせ」について厳しくなっていた。裏を返せば、やらせというと響きが悪いがテレビには「演出」がつきものである。シャレであり、そんなわけねーだろ!という視点があれば、笑って済ませるところが時代と共に、許されなくなった。

作り手とすれば、窮屈ではあるけれども、
「それでも時代のルールで面白いものを作ったる!」
「規制があるからこそ、新たな面白さが生まれるんだよ!」

という意気込みでみんな取り組んでいたと思う。制約は新たなエンターテイメントを生む!という縛りがあることは臨むところよ!ってのがテレビマンにとっての矜持だったと思う。

しかし、さすがに今の規制の厳しさ、コンプライアンスの重視は中々、勝てない状況になっている。YOUTUBEに表現の可能性を求める人が増えるのも致し方ないと思う。もはや、プロの私でもテレビが見るのが辛い時がある。いかに波立たないかに、終始している感じが否めない。炎上やクレームにびくびくするモノづくりに、面白さが生まれるはずがない。

で、本題である
「テレビはいつ死んだのか?」である。
どこに定義を置くかということである。バラエティー、ニュース、ドキュメントなど、ジャンルによる「死」の時期も違うと思う。

かつてTBSの「NEWS23」のキャスターであった筑紫哲也さんはワイドショーがオウム真理教に映像素材見せたことに対して「TBSは死んだに等しい」と発言をした。この真意は、テレビの素材は「テレビ局のもの」であり
「編集権はテレビにある」という大原則を捨てオウムの言いなりになって再編集したことに対し、「オウムの圧力に屈したテレビ局」という事実によって「TBSは死んだに等しい」という表現を用いたと考える。

だが、これは報道における「死」に値する出来事であるがこと、バラエティーにおける「死」とは何だろうか?ある放送作家は「電波少年が終わった時点でバラエティーは死んだ」と言った。それは「やりたいことをやる。面白ければ何でもOK!]の時代の終焉という意味に私は捉えている。今の時代は「面白ければ何でもOK」ではない。

バカな芸を披露して、牛乳を吐いたりしたら「牛乳の生産者に対して失礼じゃないか!」とお叱りを受けるだろう。私は「細かいこと言うなよ!」とは思ってない。むしろ、ごもっとな意見だと思っている。そのため、視聴者の厳しいクレームやご意見に沿うことは「テレビの死」とは思ってない。では、私にとっての「テレビの死」とは何なのか?である。

テレビ発がないのが「テレビの死」

私の中でのテレビとは、最先端であり、情報発信の最先端でありブームを良くも悪くも作るのが「テレビ」という認識である。そんな観点で見ると、今のテレビは「週刊文春の記事」やら[YOUTUBEDEでバズっている動画、再生回数の多い動画」とか2次ソースの情報しか、流さない。テレビマンに言わせれば、昔からそうじゃないか!と反論されそうだが、その意見もごもっともである。私自身、知っている。
「テレビは、情報における捕食者であり、食物連鎖の一番上にいる媒体である。」ことを。

言い換えれば、テレビは「何かで流行っています!」を届けるメディアであることを。けど、そこにはクリエイティブはない。右から左に情報を流した過ぎない。かつて、「世界まる見えテレビ特捜部」は私の中ですごい番組であった。海外のテレビを紹介し、軽妙なナレーションで再編集する技術。知らない世界を見せてくれる凄い番組であった。しかし、今、YOUTUBEで世界の動画気軽に見れる時代において「世界まる見え」の価値は著しく低下していると言わざるを得ない。ホリエモンは「あんなの寄せ集めじゃん。」「誰でも出来る。楽な仕事だな」と言う。でも反論させてもらうと「再編集の能力」「1時間番組を10分で見せる」にはプロの技や熟考の末の製品であることを。だが今の時代では右から、左に流している時代になったのだと思う。

そう、考えると私の中のテレビとは「明日、学校で話題になること」であり
「ブームを作るメディア」がテレビという存在であった。でも、今テレビが話題になっているのは「水曜日のダウンタウン」ぐらいか。「タモリ倶楽部」や「ブラタモリ」「チコちゃんは知っている」などもそういう意味ではまだ、頑張っている番組もあるのは間違いない。まだ、テレビは死んではいないのか?

私の観点から言えば、「テレビは瀕死」かもしれない。一方でこんな批判もある。
「テレビは最後の護送船団方式である。」という意見である。
つまりは国に守られているビジネスということだ。総務省によって、放送免許が与えられ、キー局ですら6局程度の競争しかない。これがどれほど守られているか?気づいているテレビマンは少ないだろう。いかに恵まれた環境で戦っているか。飲食店だろうが、病院だろうが、求人サイトだろうが
多くの業種は無限とも思えるライバルとしのぎを削る中、テレビはたった6局の争いである。世界ではケーブルテレビなり、地方局の独自のコンテンツでの勝負があるが、日本にはそれがない。ある意味、ぬるい環境だ。

もっと、テレビ局は謙虚であるべきだが、情報の食物連鎖の頂点にいるがゆえの傲慢さが滲む。そんな2次情報、3次情報を垂れ流すメディアは情報弱者のメディアである。誰もが知る情報という意味の役割なのかもしれない。
結果、この情報化社会においては、情報の先端に触れる人からすれば「遅い情報」であり、「ダサい情報」という認識になる。

こう、考えるとむしろ私の「テレビは1次的なブームを作る存在」
という考えが間違っているのかもしれない。テレビは2次情報、3次情報を流す媒体である。そう、考えればテレビはテレビの役割を果たしている。
数少ない例外はスポーツ中継だろう。ライブ中継は一つのテレビの1次情報として砦であるが、オリンピックか世界戦ぐらいしか、地上波では見ることはない

テレビはいつ死んだのか?
今のテレビはブームなんか生まなくていい!という存在なのかもしれない。当たり前だが存在としてテレビは死なない、私が思うテレビが死んだだけだ。


#テレビ #テレビはいつ死んだのか#テレビ消滅

宜しければサポートをお願いします。あなたの応援を、私のエンジンにさせてください。