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絶対に0点しか取れないテスト(パラドクス自己解説・その1)

・この記事は、ノベルゲーム「パラドクス研究部の解けない謎のナゾとき」の元ネタとなるパラドクス(=解けない謎)を解説するものです。

 ゲーム部分(=解ける謎)の攻略については、別のページをご覧ください。

・この記事ではパラドクスの面白さを説明することを重視していますので、学問的な正確性には欠ける可能性があります。

・以下「だ・である調」で書かせていただきます。


まずは、ゲームタイトルの「解けない謎」というフレーズに込めた意味を解説したい。

1.そもそも「謎を解く」とは、何を意味するのか?

「1+1=?」という問題を出されたとして、この問題の正解は何か?

例えば「1+1=10」と答えた場合、それは間違いなのか?

小学一年生が算数のテストで「1+1=10」と答えたのであれば、間違いだろう。

しかし、デジタルを学んでいる人が「0と1だけの二進法」の条件で、「1+1=10」と答えたのであれば、これは正しい。
(日常的に「0、1、2、3、4」と数える方法(十進法)は、二進法では「0、1、10、11、100」となる)

つまり、「1+1=?」という問題の正解を出すためには、その前提条件が何なのかが重要である。

逆に言うと、前提条件さえ変えれば、どんな答えにもなりうる。

例えば時計の世界を前提条件にすれば、「11+2=1」という答えも成り立つ。
(11時から2時間進むと、1時になるから)

また、会社の入社試験で面接官から「1+1は?」と聞かれたら、どう答えるのが正解か?

入社試験という状況からして、「1+1=2」などという答えが求められていないのは明らかである。
では、面接官はデジタル的に二進法の回答を期待しているのか?
しかし、面接官はいかにも昭和な雰囲気のおじさんであり、二進法の回答など求めていなさそうな感じであるとする。
となると、「私が入社しましたら、1+1を10にも、いや100にもしてみせます!」などと答えるのが良いとなる(そんな会社に入りたいかどうかは別問題として)。

つまり、
・謎(問題)には、常に暗黙の大前提となる条件がある。
・出題者はその前提条件に基づいた答えを期待している。
・回答者がその前提条件を破るのはルール違反になる。
ということである。

出題者サイドが前提条件を変えることはありえる。
出題者がいい意味でこれをやると、頭の体操になるクイズができる。
(「11+2=1」の時計のように)
悪い意味でこれをやると、意味不明な入社試験のようになる。

一方、回答者サイドは、基本的にルールを変えることはできない。
問題を解く以上、出題者の設定したルールを破ってはいけないのだ。
(例えば、学校のテストで「十進法で回答せよ」とどこにも書かれていないから、俺は二進法で回答したのだ。だからこれが正解だ、と言っても、自分勝手な俺ルールを主張しているに過ぎない)

ただし、例外もある。
例えば、大学のテストで通常の回答ができなかったため、代わりにカレーの作り方を書いたら合格した、という都市伝説がそれである。
これは出題者と回答者がいわば共犯者になって、一緒にルール違反をする行為と言える。

いずれにせよ、「謎(問題)を解く」とは、出題者と回答者の間で、一種のコミュニケーションを行うことなのだ。

では、我々が解きたい問題とは何か?

やはり最も壮大な謎が解きたいものである。
つまり、この宇宙はどうやってできたのか?
宇宙はどんな姿をしているのか、宇宙の果てはどうなっているのか?
時間とは何なのか、などなど。

こうした問題の出題者とは誰か?
この問題の採点をする権限を持っているのは誰か?
コミュニケーションをとらないといけない相手は誰か?
それは当然「神」である。

2.そもそも「理解する」とは、何を意味するのか?

例えば、平安時代と現代を比べると、どちらが世界をより理解できているだろうか?

・平安時代
 陰陽道おんみょうどうによって、世界は「よういん」から生まれ、あらゆるものは 「木火土金水もく・か・ど・ごん・すい」という五行ごぎょうによって説明される。

 つまり、木が燃えると火が出る。それが灰(土)になる。土からは金属が出てくる。金属には水滴が付着する。水があってこそ木が育つ、という形で、客観的な観察に基づいて、この理論の正しさが証明できる。

 この理論でどれだけ世界を説明できているか?と問われれば、答えは「すべて」だ。

・現代
 物質は原子でできており、それはさらに素粒子などで構成される。
 しかし、人類にとってまだ未知の素粒子もあるとされる。
 ダークマターやダークエネルギーと呼ばれる正体不明のものが、宇宙の95%を占める。
 我々が知っているものは、たった「5%」でしかない。

平安時代と現代を比べて、どちらの方が、世界を「より理解している」のか?
「より正しく理解している」のはどちらなのか?

答えはどう考えても、「現代人が正しい、現代人の方が理解している」に決まっている。
そうとしか思えない。

これが、我々の認識の限界である。

どちらが正しいかを判断するには、何らかの価値観に基づいて判断せざるを得ない。
しかし、なぜその価値観に基づいて判断したのかと問われれば、それが正しいと思うから、という堂々巡りでしかない。
確固たる土台はない。
とりあえず今自分が立っている土台に立つしかない。
(したがって、「平安時代の方が正しい」わけでもない)

いつの日か、人類はダークマターやダークエネルギーのことを理解するだろう。
謎を解明した、これで世界のすべてが説明できた! という平安時代に感じた興奮と充足感をもう一度味わえるだろう。

3.我々は物語の「外」にいるのか? 「内」にいるのか?

もしかしたらある日、「神」が我々の前に姿を現すかもしれない。
「神」は死者を蘇らせたり、未来や過去を自由に行き来して、人類の科学技術を圧倒的に超える力を持つことを見せつける。
ダークマターやダークエネルギーなどについても、すべて分かりやすく説明してくれる。

こうしてすべての謎が解かれる。
もはや謎など何一つとして残っていないと、人類は思う。

しかしその直後、横からもう一人の神が現れて「ちょっと待った、それは間違っているぞ」というどんでん返しが起こるかもしれない。
そうはならない、という保証はどこにもない。

そんな不安を抱えながら、人類はその存在を「神」と呼んでもいいのか?

もちろん、人類を超えた存在であることに間違いはないのだから、一般的な意味では「神」と呼んで差し支えない。

が、理論のみを追求する立場からすると、神とは究極の存在であり、究極と言うからには、絶対に究極でなければならない。

今目の前にいるこの神こそが、究極の絶対的な真の神である、という証明が欲しい。

しかし、人類は神の世界がどうなっているかなど分からないから、人類に証明はできない。

となると、あとは目の前の神自身に「あなたは究極の神ですよね? あなたを超える存在は他にいないですよね?」などと馬鹿げた質問をするしかない。
YESの回答があったとしても、裏付けは取れない。
ただ信じるしかない。
宗教の立場からすれば「信じる」というのは正しい行為だが、理論のみを追求する立場からすると、これでは何の証明にもならない。

ミステリーの小説や漫画・アニメなどであれば、警部が謎解きを披露した後、名探偵が現れて、全部ひっくり返しても問題はない。
その名探偵こそが、真相を明かしたのであり、さらなる名探偵はいないことを作者が保証してくれる。
読者も作者も、物語を「外」から見ることができるからだ。

しかし、我々のいるこの世界においては、我々は物語の「内」にしか存在できない。
この世界の登場人物に過ぎない我々には、物語の最後の真相は分からない。

4.「よく頑張ったな、0点だ」

個々の謎を解くことはできるし、正解にたどり着くことはできる。
テストで個々の問題で丸をもらうことは可能である。

ただし、それが唯一絶対の正解とは言えない。
常に別の正解が存在する。
究極の真実、最後の真相、絶対の正解にはたどり着けない。

最終的な採点をしてもらうことは不可能であり、100点は得られない。

いつまで経っても、世界の謎・宇宙の謎のテストで、我々は0点である。

どれだけ頑張っても、我々は1点をとることすらできない。
100分の1だけでも絶対に理解した、とは言えない。

なんという徒労。
なんという無駄な努力。
真相には決して辿り着けない。

我々の前には絶望的な「レイ」点が立ちはだかる。

しかし、この「レイ」を「美しい」と認識する者がいる。
それこそが「零美レミ」、パラドクス研究部の部長である。

この物語は、主人公が零美レミと出会うところから始まる。

(パラドクス自己解説・その1/了)


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