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絶対に「ない」ことを教えてください(パラドクス自己解説・その2)

・この記事は、ノベルゲーム「パラドクス研究部の解けない謎のナゾとき」の元ネタとなるパラドクス(=解けない謎)を解説するものです。

 ゲーム部分(=解ける謎)の攻略については、別のページをご覧ください。

・この記事ではパラドクスの面白さを説明することを重視していますので、学問的な正確性には欠ける可能性があります。

・以下「だ・である調」で書かせていただきます。

・自己解説その1「絶対に0点しか取れないテスト」は、別ページをご覧ください。


今回は「ない」こと・「ありえない」こと、について考えてみたい。

良い意味で「ありえない」ことが実現すれば、当然嬉しい。

一方で、悪い意味で「ありえない」ことが起こった場合、現実では困るが、フィクションであればそれを楽しめる場合が多い。パニック映画やホラー映画は基本的にそれである。

つまり、物語とは、良い意味でも、悪い意味でも、「ありえない」ことを描くものだと言っていい。
(どちらかと言うと、悪い意味の「ありえない」ことを描く方が多いとも言える)

もちろん、物語の中には、ありふれた日常を題材にしたものもある。しかしその場合でも、その日常のかけがえのなさ、キラキラと光輝く様子は「ありえない」ほどのものであることが多い。

やはり、物語とは「ありえない」ものを描くものなのだ。

となると、気になるのは究極の絶対的な「ありえない」こととは何なのか、ということだ。

1.そもそも「ない」とは、何か?

例えば「宝くじに当たる」とか「雷に打たれる」とか、そうしたことは「ある」のか? それとも「ない」のか?

答えは「可能性は極めて低いが、ありえる」だ。
だが、そんな可能性の極めて低い現象は山ほどあり、いちいちそれを意識していては、日常生活を送ることはできない。

このため、我々はそうした可能性は、通常「ない」ものとみなしている。

が、個人レベルでは「ない」に等しい確率のものであっても、人類全体・世の中でみれば、よく「ある」ことになる。

したがって、こうしたものは究極の絶対的な「ない」ことにはならない。

では、人類全体でみて「ない」こととは何か?

例えば「火星に人類が立つ」というのはどうか。これは現状では「ない」ことだ。

しかしそれは、技術や資金の面でなかなか実現していないものであって、別にそれが物理法則に反しているわけではない。近い将来実現する可能性は十分ある。

実現したら、人類の歴史の一ページに刻まれることになるわけだが、それによって物理法則がひっくり返るわけではない。

火星に人類が立てるかどうかも興味深い話だが、ここで追い求めたいのは、あくまで「絶対ありえない」こと、究極の「ない」である。

となると、「(物理的にも)ない」というのが、「絶対にない」ことになるのか?

例えば、時間を逆行することはできない。
が、それは「絶対にない」のか?
そうとは言い切れない。
物理法則と言うのは、あくまで現代の科学によるものであり、もしかしたら未来では、新たな物理現象の発見によって、タイムトラベルが可能になるかもしれない。

その時点では不可能であっても、それを想像し、実現するというのは、人類の歴史でもある。

そして人間の想像力は無限大だ。

となると、人類の想像力はすべてをカバーし、「想像すらできない」ものは「ない」のか? 究極の絶対的な「ありえない」ことなど、ないのか?

それとも、人類の想像力の外側には、何かが「ある」のか? あるとすれば、それは何か?

上記の円グラフで言えば、緑色の「ある」が100%すべてを占めるのか?
それとも、人間には想像すらできない、真っ黒な暗黒の「ない」部分がいくらか存在するのか?

2.「想像すらできないもの」とは何か?

人類の想像力の「外」ということから連想するのが、H・P・ラヴクラフトである。

クトゥルー神話の創始者であり、人類を超えた邪神の世界を描こうとした作家である(などと書くと「クトゥルー神話」とはそもそも、という話になりそうだが、ここでは分かりやすさを優先して、そう表現する)。

必然的に人類の想像の限界に挑むことになるわけだが、想像を超えた世界など、どうやって描けば良いのか。

その手法は
・「究極の」とか「最終いやはての」などの形容詞を乱発する。
・「全にして一なるもの」など、反対の意味の言葉を融合させる。

などがあるが、最終手段が

・「名状しがたい」というフレーズで説明してしまう。

というものである。
「想像力を超えているので、もはや想像もできない、説明できない」という形で「説明した」というものである。

では、この「名状しがたい」こそが、絶対にありえないものなのか?

答えはノーである。

「名状しがたい」を説明せよと言われると、どうか。
正確には説明できないものの、ラヴクラフトの作品に慣れ親しんだ読者にとっては、これはおなじみのフレーズであって、決して意味不明な言葉ではない。何かしらかが想像される言葉である。したがって、想像力の「外」ではなく、「中」にある言葉だ。

同様の話は、いくらでもある。
例えば「猫がニヤニヤ笑いだけ残して消える」というのはどうか。
本来的に言えば、笑いだけを残して猫本体がいなくなるのはありえない。
意味不明である。
物理的にどうかという以前に、言葉の使い方として、間違っている。
これは「ない」。
が、不思議の国のアリスを知っていれば、「ない」ではなく「ある」になる。

つまり、言葉を超えた領域というのは、人それぞれによって大きく異なる。
また、個人にとっても、それは固定されたものではなく、新しい作品に触れたりすることで、常に変化していくものである。「ある」の領域は増やすことができる。いわば、「ない」エリアから「ある」エリアに引き込んでいく(別の言い方をすれば、「ある」の領域を増やしていく)わけである。

が、「ない」から「ある」の領域になった瞬間、それは「ある」になる。
それはもはや、欲しかった「絶対にない」ものではない。
となると、また「ない」の領域から何か新しいものを探すことになる。

こうした探求は永遠に続くものであり、ゴールはない。
「ないものねだり」は、特定のものが欲しいわけではない。まさに「ない」ものが欲しいのだ。

と、長くなったが、ここまでが話の前提であり、ここでようやく今回の記事の一番重要な点に至る。すなわち、その「ない」ものは、一体どれだけ「ある」のか? ということだ。

3.「想像すらできない」世界は、どれだけ大きいか?

例えば、あいうえお五十音(小さい文字、濁点なども含む)の中から、ランダムに6文字を取り出して並べるゲームをした場合、それはどんな言葉になっているか?

例えば「よ」「い」「て」「ん」「き」「だ」(良い天気だ)と出てきたら、それは「個人の日常」レベルの「ある」に収まったわけである。

「じ」「か」「ん」「そ」「こ」「う」(時間遡行)と出てきたら、現代の物理学では不可能だが、「想像のレベル」の「ある」には収まる。

こうした作業をして、できた言葉がどのエリアに入るか、何度も繰り返したとき、どうなるか。どのエリアに入る言葉が最も多いか?

結果は、個人の日常レベルに収まる言葉になる可能性など、ほぼないだろう。
それどころか、ランダムな6文字が、何らかの意味を成している言葉になることの方が珍しいだろう。

たとえば「こ」「り」「か」「ん」「ち」「ゃ」(コリカンチャ)という言葉になったらどうか。
まったく意味をなさない言葉である。つまり、暗黒のエリアの言葉だ。
(しかし、これはインカ帝国の太陽神殿を指す言葉であると知っていれば、話は違う。このようにして、「ない」から「ある」に引き込むのだ)

たとえどれだけ色々な言葉を知っても、知識を増やしても、意味不明な単語にしかならない可能性の方が圧倒的に多い。

しかも、ひらがな五十音だけでなく、漢字やアルファベットなど、あらゆる文字があるのだ。

究極的には、文字に限定せず、画面モニターの上に、適当にドットを生成して、それが文字なり模様になって、どのエリアに収まるか、ということになる。

ランダムに生成されたものは、おそらくほぼ意味をなさない。

つまり、最大限に広い「想像のレベル」ですらカバーできないものが圧倒的にある。

人間の想像力は確かに無限大である。それは間違いない。

しかし、人間の想像力の「外」にある、黒い領域も無限大の広さを持つ。

そして、どちらが大きいか?

円グラフでは、緑色の領域が大半を占め、黒色の領域は少ない。

が、実際はまったく違う。
実際には、黒い領域の「無限大」こそが、「無限大」に大きい。

そこから見れば、人間の持つ無限大の想像力の大きさは、「ゼロ」でしかない。

これは「自己解説・その1」における、絶対に0点しか取れないテストと本質的に同じ話である。

またもや登場する「無限」と「ゼロ」の概念。

これがこのゲームの根幹を成す概念でもある。
非常に複雑な概念なのだが、これを避けては通れない。

ということで、次回の「自己解説・その3」では、無限とゼロについて考えたい。

(パラドクス自己解説・その2/了)


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