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実朝さん

世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも

師匠の藤原定家が百人一首に取った歌です。
この歌は小舟が流されて遠くいくの悲しむ漕ぎ手を描いているのですけど、世の中は平穏に動くことが少なくて、むなしいことを歌っていると思っています。世の中のありさまを歌う、こういう感覚が当時でもめずらしい。ものすごい虚無感も感じます。

ものいはぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子をおもふ

親子の情を歌った歌なんですけど、こういう歌は平安時代に少ない。万葉集だと山上憶良の
しろがねも くがねも玉も 何せむに まされる宝 子に如しかめやも

とか庶民的な歌に似てるので万葉風って言われるんでしょうけど、鎌倉の民や御家人たちとの距離が近かったからかなって思います。
歴史家の坂井孝一さんによると彼の母政子は死ぬまで田舎娘の感覚があった人だったそうです。
平安の歌人は庶民に冷たいです。白洲正子さんによると、僧であった西行ですら晩年まで冷たいそうです。それぐらい搾取がひどく社会に格差があった。庶民を湿った狭い地域に押し込められた、ほこりまみれ泥だらけで短命な人たちだと感じていたようです。関東はそこまではなかったのだと思います。

秦野田原にある実朝の塚と歌碑。
ものいはぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子をおもふ
この辺りはイノシシが出ます

その中で実朝は為政者として生きた青年です。
花巻の大富豪の息子として生まれ、両親の深い愛情を受けた宮沢賢治によく似た境遇だなって思います。ほんと私の中で共鳴します。
頼朝は流人時代から仕送りで寺の鐘を寄進できるほどの金持ちだそうで、のちに権力も得ました。
そして、生まれたとき嬉しくて泣きだすほど末っ子を愛していたようです。
実朝はどうしようもない形だけの将軍であり、子も持てない人だったのだけど、身近な人々は彼に魅了されたのかな。

実朝塚を作った波多野氏のお館あとです

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ

時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ

歌を歌い続けるのは愛のある孤独かもしれませんが、百人一首は犯罪者のたった一つの恋の名歌も収録している。
今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな

作者である藤原道雅は斎宮になった皇女と禁断の恋愛します。
この恋以降すさんでしまって、まともな歌は読めなかったようです。
中宮定子のおいで枕草子で松君として可愛がられた様子が残っている人です。

百人一首は極めて政治的な作品集です。和歌という文化の芯を残そうとしたのだと思います。今もこれだけは口ずさめる人残っているよね。

人は絶えてしまうけど、思いの芯は同じように残るのは、平等なんかなって思ったりします。


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