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英語をマスターするのに必須な、英語以外のファクター

英語でのコミュニケーションには、日本人が特に気をつけたほうが良い、言語以外のファクターがいくつかある。どれだけ英会話ができていても、これらファクターのいずれかが欠けていれば、真の意思疎通は難しい。

日本人に英語が必要となるのは、国籍や文化が異なる人々が集まる場においてである。このような場を「グローバル」な場と呼ぶ。グローバルは何も世界中を飛び回ることとは限らないし、ましてや英語圏で生活することでもない。日本国内でも、中国でもドイツにでも、グローバルな場はあり得る。

行間に頼らない。

グローバルな場では、相手の文化や価値観、考え方が、自分とは異なるという大前提を理解し、コミュニケーションをとる必要がある。だから、くどいくらいに言葉に表さなければならない。反対に、わからないことや聞き漏らしたことは、徹底的に質問すべきである。

そもそも英語圏、特にアメリカでは、子どもの頃から「他人とは違うユニークな存在であれ」と育てられる。つまり、人とは違う考えを持つようにと教育されているのだ。他人の考え方や価値観は自分とは違うことが大前提なので、できるだけ自分の考えを明確に言葉にし、相手の意見にも徹底的に質問をする。

一方日本の文化は、阿吽の呼吸、以心伝心、馬が合う、ツーカーの仲などの言葉通り、はっきりと言葉に出さずとも、相手に理解してもらうことを美徳とする。これが成り立つのは、私たち日本人が「人様と同じようにしなさい」と躾けられ、「個人」であることよりも「どこかに所属し、そこにうまく溶け込める一員」となることの方が大事だと教えられてきたからである。その「所属するどこか」は仲良しグループにはじまり、クラス、学校、クラブや地域、会社など、大小を問わずありとあらゆる集団を含む。つまり日本文化は「所属するところ」が先にありきで、英語圏やグローバルなコンテクストでの「個」が先にある文化とは全く逆であることを意識しておくべきである。

よって日本人が英語で話す時は、相手の理解を得られるまで、全てを言葉にして説明し尽くすこと。逆に相手の言っていることは言葉通りに理解しなければならない。つまり行間などを読む必要はない。また自分が納得いくまで質問することは、例え初歩的な質問であっても恥でも失礼でもない。分からないまま長いものに巻かれてはならないというわけだ。これら英語・グローバルの感覚を身につけ、実践できるようになるためには、多くのトレーニングを積み重ねることが必要である。

Weと言う前に、ちょっと待て。

英語は言語の構造上、主語を省略することができない。したがって会話の中で、誰が何をするのかは自ずと明確になる。だから、例えばアクションプランを割り振るときなど、遠慮なく誰かを指名することになる。日本人は名指しで指名、つまり主語を必ず言うすることを意識する必要がある

なぜなら、日本語は主語を省略できる珍しい言語であり、省略された主語は話の流れで暗黙のうちに理解されるため、日本人同士では、名指しを避けることが習慣化しているからだ。日本語で役割分担を決める会議などでは、名指しで人に仕事を押し付けると「和を乱す」とか「偉ぶって」などと思われるため、誰も具体的に指名しないということは、誰もが経験しているであろう。もちろんビジネスで、これはよくないことは明白なのだが。

この日本人の感覚のまま、英語でコミュニケーションをしていると、つい主語をweにしてしまう。皆で決めたことはなんとなく皆でやっていくという感覚、あるいは誰かを指名することに及び腰になるからであろう。しかしこれは英語圏ではご法度である。責任の所在が不明確になるだけでなく、自らリーダー失格の烙印を押すことと同じだからだ。日本人と英語で会議をしていると、このパターンが頻発する。日本人がグローバル・ビジネス環境で相手にされなくなる要因がここにあると、私は思っている。

意思表示をストレートに。

英語での会議の最後でアクションを決めるとき、日本語の「〜したいと思います」の感覚のまま「I think I want to do ~.」という日本人英語を聞くことがある。これでは、責任をとることを避けていると思われても仕方がない。「やりたいと思っているって言うけど、やるの?やらないの?」と間違いなく確認の質問を浴びせられる。自分がやるのならはっきりと「I will do ~.」と言うべきであり、自分がやるつもりだが自信がない場合は、何に不安があるのかを具体的に言い、ヘルプを求めるべきである。

日本語の「〜したいと思います」は「〜します」の意味だが、そこにわざわざ「と思います」を加えている。これがまかり通るのは、意思表示を曖昧にすることを美徳とする日本特有の文化の中だけである。

YesかNoかも、はっきりと返事をすることだ。日本ではYesかNoかをハッキリと言わず、相手に悟ってもらうことが高度な交渉技術であり、むしろ美学とも考えられている。しかしこの考えのまま英語でやるのは全くダメだ。日本人は決定ができない、結論を出せないと、評価されがちな所以である。

英語でのストレートな意思表示と日本人の「遠慮」にもズレがある。例えば知人宅に招待され、数時間が経った頃「そろそろ失礼しなければ」と言ったとする。英語なら招待主はそれを言葉通りに解釈し、「帰らないといけない?じゃあまたね」となる。

しかし日本ではこれは礼儀であって、本当にその時点で失礼しようとしているわけではない。そして「まあまあコーヒーでもいかが」と言われ、もう一時間くらい居るというのは日常茶飯事である。つまり「そろそろ失礼」は社交辞令であるとの暗黙の了解が成立しているのだ。

このように、英語は言葉通りに受け取られると言うことを肝に命じ、ストレートに意思表示をすることを心得ておくべきである。

話を最後まで聞かない。

英語では、人の話を最後まで聞かずに話し出すことは失礼でもなんでもない。むしろ、相手が話すセンテンスの終わりに、覆いかぶさるように自分が話し出すことを心がける必要がある。これをうまくできなければ、3名以上の会話では、いつまでたっても自分の発言するタイミングを逃すことになる。英語は大事な言葉ほど文のはじめの方に置かれるので、文末まで聞かなくても会話が成立するのだ。

日本語では、相手が言い終わらないうちに、自分が言葉を発するのは失礼に当たる。これは「あります」と「ありません」など、文末になって意味が逆になることがあるため、日本語は最後まで聞く必要があるからだ。

相槌は禁止。相手の目を見る。

日本人は、英会話では相槌を打たないことを意識すべし。日本語で話を聞いている時のように頻繁に相槌を打っていると、「真剣に聞いていない」「聞き流されている」と誤解される恐れがある。

その代わり英会話では、相手の目をしっかりと見ることが必要だ。相手と視線を合わせることで、ニュアンスを含む相手の言葉を理解できる。会話中に目を見ない人は信頼されない。これは話し手にも聴き手にも当てはまる。

私たちは日本人は、相手の話を聞きながら「うん」とか「ほー」とか「ええ」とか「はい」などの相槌を頻繁に打つことによって、心から聞ているという姿勢を示している。また、日本では「相手の目を直視するのは失礼」と躾けられている。面接のリハーサルなどでは「相手のネクタイの結び目あたりを見る」と教わったはずだ。これらの癖をそのまま英語に持ち込まないよう、強く意識することをお勧めする。

丁寧語、敬語の感覚を捨てる。

英語にはそもそも敬語がない。敬語に相当するものは、軍隊で上官に向かってつけたり、非常に丁寧に顧客を呼ぶときに使うsirやma’amなどの敬称、”Do you want ~?”を丁寧にいう場合の”Would you like ~?”くらいだ。

しかもグローバルな英語でのコミュニケーションでは、上下関係を気にせず、初対面であっても、対等にファーストネームで呼び合うことが普通だ。私が務めている会社ではCEOに対しても、誰もがファーストネームでDavidと呼ぶ。敬意や丁寧のつもりで、いつまでも相手のことをMr. + family nameなどで呼んでいたり、自分だけが相手より丁寧な言葉を使うなどをしていると、相手との間に必要以上の距離を残すことになる。ただし、相手を「個人」として敬う心は常に持っておかねばならない

日本人の私たちは、敬語の使い方を徹底して教育されてきた。年齢や社歴、ポジション等によって、目上の人が下の人に対して話す言葉と、下の者が上の人に話す言葉は明らかに異なる。上下を意識しないようにと言われても、慣習として互いの言葉に上下関係が出てしまうものだ。「気持ちで敬意、言葉は対等」を日本人は意識しておいた方が良い

まとめ

以上のように英語でのコミュニケーションは、私たち日本人の感覚からずれた部分をマスターしなければ、なかなかうまくいかないものだ。最終的には、場数を踏んで感覚を磨かねばならないが、ここに挙げた言語以外のファクターを知識として持っておくことは、英語を短期間でマスターするのに、必ずやプラスになるはずである。

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