見出し画像

間違えだらけの学校英語教育

これまでに、英語は学ぶことではなく「使うこと」が重要であり、英語を英語のまま理解するトレーニング方法を紹介しました。

もう一度言いますが、私は英語が全くダメで全く英語をやる気のない生徒だったのです。その私が、英語で仕事をし、英語で寝言を言い、英語で本を出し、シンガポールで英語で化学を教えることもあるのです。だからあなたにもできるのです。そのために必要なことは、英語のトレーニングに取り組むこと。英語は「勉強する」科目ではありません。そのために、学校英語の「勉強」は一旦忘れましょう。

学校英語教育は「英語でコミュニケーションができるようになる」という目標に対しては百害あって一利無しと言っても過言ではありません。それは昔も今も変わりませんし、2020年の英語教育改革でも、この根本的な間違いは改善されないようです。学校英語教育の根本的な間違いは次の二点。

英語を日本語で教えていることが全ての間違い

英語を日本語で教えているということは、教師も生徒も頭の中で英語と日本語を忙しく常に切り替えているということです。これは英語をコミュニケーションの手段として習得するという観点からは全くもってナンセンスなのです。いつまでたっても「英語の頭」になりません。

また、学校英語で身につくのは翻訳のスキルです。英語和訳と日本語英訳です。しかしこれはリアルタイムで英語でコミュニケーションをとる、という観点からは全くの無駄でしかありません。将来翻訳家を目指すごく一握りの人以外には不必要なスキルですし、もっと言えば有害です。英語と日本語は、ほとんどの場合、辞書に書かれているような一対一に対応していません。話の流れに応じて訳語としては微妙にずれていることがほとんどです。それを無視して訳語を当てはめるというのは、コミュニケーションの観点から言って有害なのです。コミュニケーションというのは、相手の頭の中、心の内を理解することと、自分の考えや気持ちを伝えることです。だから英語は英語のまま理解するくせをつけることが大切。日本語に訳してから考えることは最初からコミュニケーションを放棄していることに他なりません。決まり切った訳語を当てはめることによってほとんどのニュアンス(つまり気持ちや考え)が失われるからです。

英語を一つの「科目」として扱っていること

二つ目の間違いは、英語を教育の中の一つの「科目」として扱っていて、「コミュニケーションの手段」として位置付けていないことです。つまり学校の中でも、英語を「英語の時間」以外には一切使わないことが問題なのです。英語は点数を取るために「勉強する」ものになってしまっていて、英語ができなければ世界史も理科も数学も勉強についていけない、という状況が欠如していることが問題なのです。英語を「学問」として教え、点数を稼ぐための「科目」と考えているようでは、いつまでたっても実践英語は身につきません。

繰り返しの効用がない

2020年に英語教育が変わることになっていますが、何がどう変わるのでしょうか?

小学3年生から英語教育がスタートします。しかしこれは、年間に35コマの「英語活動」が始まるだけです。週に一回弱ですね。手厳しい言い方ですが、この程度では「時間の無駄」にしかならないでしょう。それは習った片っ端から忘れていくからです。

それは、繰り返しの効用がないからです。これはH. Ebbinghausの実験によるものです。物事を覚えたあと何日の間にどのくらい忘れていくか、そして何日後に復習すればどの程度忘れる速度が遅くなっていくか、という研究です。それを簡単にまとめた図が以下です。100のことを習っても一日経つと55まで下がります。そこで復習すれば、二日経っても70近くは覚えています。その時点で二度目の復習をすれば10日後でも80近く覚えている。これを繰り返していって始めて、習ったことが短期記憶脳から長期記憶脳へ格納されるのです。これは何も言語習得に限ったことではなく、ありとあらゆる習い事に当てはまります。私も新しい機械の操作を教えてもらっても、自分ですぐに使わなければ忘れるということを痛いほど経験しています。それが習った日のうちに実際に自分で使い、翌日も使い、と繰り返しているうちに、何ヶ月立っても忘れていない状態になっています。子どもの頃に習っていたピアノを、20年全くやらなくても、ピアノの前に座れば、昔やっていた曲をさらさらと引けてしまう。スポーツも同じですね。これが長期記憶脳の働きなのです。

図はOnline Flashcards and Games - Learn YOUR Words!から引用

日本語環境では「英語脳」は育たない

2020年の英語教育改革では、中学の英語は、基本的に全て英語で行われるようなります。考えを発表することや議論をすることに重きが置かれることになるようです。これは歓迎すべきことです。しかし他の科目はそのまま日本語で行われます。つまり学校にいる間のほとんどの時間が日本語環境なのです。これではいつまでたっても「英語脳」は育ちません。本来なら、英語や数学、社会、理科などの縦割りをやめて、理科を英語で教え、英語で議論することの方が手っ取り早いはずなのです。特に数学や理科は、将来は必ず英語の論文を読み、英語で論文を書き、学会で発表することになるからです。明治維新の先人たちは全ての英語やドイツ語から日本語の訳語を作りました。脱帽に値しますが、これが逆に仇となって、日本人の英語教育が間違ったまま100年以上が経過しているのです。

フィリピンとシンガポールでバイリンガルが育つわけ

日本の英語教育と比較して、アジアで最も英語で成功しているのが、フィリピンとシンガポールです。

フィリピンはタガロク語がいわゆる母国語で、英語とタガロク語の二つの公用語があります。ほとんどの家庭が家ではタガロク語のようですし、私の職場のフィリピン人同士が話しているのはほとんどがタガロク語です。それでも小学校に入れば学校の授業がいきなり全て英語になります。そう、どの科目も全て英語で教えられることになります。もちろんこれは1898年から1946年までのアメリカの植民地時代の名残です。1898年から英語が教育現場での言語となっていて、植民地時代が終わった時にもフィリピンの人たちは英語をそのまま残す選択をしたのです。そして街中の看板や道路標識もほぼ全てが英語です。

シンガポールには4つの公用語があります。英語、標準北京中国語、マレー語、タミール語です。家庭ではそれぞれの母語を使うところがほとんどのようです。人口の8割程度を占めている中華系の家庭なら中国語(しかもそれが福建語であったり広東語であったり)です。しかし小学校に入れば全ての授業が英語で行われます。母語の授業も行われるので、全員がバイリンガルに育ちます。ちなみに4つの公用語の中で「国語」はマレー語です。これは歴史的な意味合いがあります。軍隊のセレモニーでの号令は全てマレー語です。しかしビジネスも街中もほぼ全てが英語です。英語はもちろんイギリスの植民地時代(1829-1962年)の名残です。独立時点で(今現在も)人口の8割程度を占めていた中国系の人たちが話す福建語や広東語にも関わらず、英語を公用語として残したこと、英語をビジネスや政府の仕事で使う言葉として宣言したことは、建国の父Lee Kuan Yewの大きな功績の一つでもあると思います。

当然ながらフィリピンもシンガポールも、国民のほぼ全員がバイリンガルです。この二つの国のバイリンガル、マルチリンガルの人の比率は統計にはきちんと反映されていないようですが、実際のところは、ルクセンブルクやベルギーと並んで世界の中でもトップクラスではないかと思います。

学会と大学が率先して英語化を!

私が最近声高に主張しているのが、日本の各学会が英語化を推進・主導することです。日本国内で開催されているシンポジウム・学会を英語での発表と英語での質疑応答をデフォルトにすることとと、学会誌を英語にすることです。ちなみに中国の学術シンポジウムも学会誌もほとんどが英語になっています。例:Chinese Journal of Physics, Chinese Journal of Communication, Chinese Journal of Engineering, The Chinese Journal of International Politicsなんていうのもあります。しかもそれぞれ中国以外の国の出版社から出されているのです。

そして大学も開かれた大学を目指すべきでしょう。授業は基本的に英語で行うことにする。そうすれば欧米・中国・インドなどから世界トップクラスの教師を招聘できることになります。

こうなれば、英語教育改革も2020年のプランのようではダメだ、ということがはっきりとわかると思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?