私がバッハにハマったわけ:グールドのゴルトベルク

今年は、個人的にJ.S.バッハの音楽をちゃんと聴き始めてから(というのは、自発的にCDを買ったりコンサートに行ったりというようなこと)ちょうど10年めにあたる年です。大人になるまで、まったくと言っていいほどクラシック音楽に触れてこない人生だったのに、本当に急にハマった。そして今もハマりつづけています。

で、「なぜそんなことが起きたか」「なぜバッハだったのか」というのをこの機会に改めて振り返ってみるとともに、「バッハの良さがわからない」「興味はあるけど何から聴いたらいいか知りたい」という方に向けて、おやつ感覚で軽く読めるちょっとした記事を書いてみようと思います。題して「私がバッハにハマったわけ」。

J.S.バッハとは、18世紀ドイツの作曲家で
頭髪が奇妙でふくよかなことで知られるおじさんだ
音楽の父とか言われることもある

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グールドさんとの出会い

20代のころにハマったアルゼンチンタンゴ。そのタンゴの巨匠、アストル・ピアソラが、生前のインタビューで「無人島にレコードを一枚持っていくとしたら?」という定番の質問の答えとして挙げていたのが、グレン・グールドの弾く『ゴルトベルク変奏曲』でした。すべてはこれがきっかけ。

グレン・グールド(1932-1982)はカナダ人のピアニストで、彼が録音した2枚のゴルトベルク変奏曲 BWV988※は、特にピアノ演奏によるバッハ作品の定番中の定番として知られています。本当にチョー有名で、基本的にどこのCD屋さんのクラシック売り場に行っても必ずある。

※なお、J.S.バッハのほぼ全ての作品には、後世の研究者によってこのようにBWVで始まる連番(バッハ作品主題目録番号)が振られています。まともな録音にはタイトルに必ずこのBWV番号が書いてあるので、検索するときはこの番号でググると便利です(本記事でも極力表記します)。

グールドの魅力を伝えるには映像が早いと思いますので、まずはこの3分程度の短いクリップを見てみてください。大好きなやつです。

ガウンを着て、部屋でパルティータ第2番 BWV 826のシンフォニアを練習するグールドさん。動画の1分過ぎくらいから、何度も同じ個所を繰り返し練習し始めたかと思うと、急に止めて立ち上がり、でまた何か閃いたのか急に座って、続きのところから今度はマシーンめいた手さばきで一心不乱に最後まで弾く。まるで何かに取り憑かれたかのような映像…しかも弾いている間じゅう、ずっと上機嫌で歌っているのです。

歌が入っている!

そう、何も知らずにグールドのゴルトベルクのCDを買って衝撃だったのが、まず演奏者の鼻歌(ハミング)が入っていることでした。え、いいの!?スタジオ録音のピアノ曲だよ!とかって思いませんか?誰もが認める天才であると同時に、数々の奇行で知られるグレン・グールドの特徴のひとつが、この「録音中に歌ってしまうのをやめられない」ことなのでした。

このほかにも「めちゃくちゃ姿勢が悪い」「めちゃくちゃ椅子が低い」「その特注の椅子をどの演奏会にも持ち込んだ」「その演奏会すらもある時期から完全にやめた」など様々な逸話のあるグールドですが、ことバッハの演奏に関しては定評があり、たくさんの専門書や解説書が出ているためここでは省きますが…要は間違いないということです。

スタジオ録音盤は2種類あって、デビュー盤として1955年に録音されたモノラル・ヴァージョンと、晩年の1981年に再レコーディングされたステレオ・ヴァージョンがあります。で、しかもこの音源、同じ曲なのに弾きかたがまったく違う!クラシック音楽って、よく同じ曲でもたくさん録音があって違いが分からないなんて言いますが、さらに同じ曲の同じ演奏家でも録音年によって演奏のしかたが全然違うわけですよ。アリアと30の変奏のほとんどを爆速で弾いて38分で嵐のように終わる55年盤と、たっぷり50分以上をかけてメリハリを利かせた表現力抜群の81年盤、どちらも違って魅力がある。

国内で最も手に入りやすいCDはソニークラシカルから出ているもので、いずれも1,000円~1,500円くらいで買えます。前述のとおり、クラシック盤コーナーのあるCDショップならどこにでも置いてあります(むしろこれを置いていないCD屋には行かなくていいまである!)。

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(きっと)一回では良さがわからない

私が最初に買ったのは81年盤のほうでした。なんだけど…正直なところ、買ってからしばらくの間は良さが分かりませんでした。馴染みがないというのはもちろんのこと、「聴きかた」がわからなかったのです。繰り返し繰り返し聴いて、本当に良さが分かってきたのは数年後のことでした。

例えば、これはゴルトベルク変奏曲の最初の曲『アリア』ですが、初めて聴いてウワーッ!みたいに感動する人はあまりいないのではないかと思います。

美しく心地よい…のはわかるけれど…?

これは自分の考えですが、クラシック音楽のなかでも特にバッハに代表される古楽(バロック音楽)みたいなものって、明確に「聴きかた」のコツがあるのです。

というのも、現代のポピュラー音楽ってほぼすべてが100%和声的な音楽で、メロディーがあって、伴奏があってというふうに主従がはっきりしていますよね。なので、初めて聴くときも基本的にはメロディーだけを追えばいい。それで曲としては十分把握できるようになるはずだし、良し悪しも判断できます。

ところが、バッハはまったくそうではない。古楽は対位法に基づく多声的な音楽なので、全部の声部が独立してバラバラに動いて、言ってしまえば全部が主役になりうる。それらが重なるあらゆる瞬間の連続や、複雑な絡み合いこそがポリフォニーの楽しみなのだから、まず声部を聴き分けるための訓練が必要になるのは当たり前のことなのかもしれません。

と言っても、別に難しい勉強が必要とかでは全然ないと思います。私の場合は、脳に沁みついていくような感じでした。とにかく繰り返し聴いていると、じわじわと理解できるようになる。

その点、初めてでも凄さがわかりやすそうなのがこの第5変奏で、
両手をダイナミックに交差させつつ超スピードで駆け抜ける!

一般に、クラシック音楽の…というか芸術作品全般に対して、「わかる」「わからない」という評価軸がありますよね。この絵は私にはわからない、とか。それがもし鑑賞者の感性に基づくものであった場合、わからないものがわかるようになる、というのはすごく大変なことだと思うのです。もしかすると、一生わかるようにならないかもしれないし。

だけど私のなかでバッハの作品は全然違って、わかろうとする(主体性をもって聴こうとする)と、必ずそのぶんはわかるようになる。そういう風にできている。ゴルドベルク変奏曲に対する印象の変化こそが、まさにそれでした。

以前、BBCのドキュメンタリーでバッハのことを、芸術家というよりも「音に関する自然の法則を発見して、体系的に編纂した物理学者」というように評していた方がいました。好きとか嫌いとか、感性の次元の話ではないからこそ、誰にでも「わかる」ようになる可能性のある、ある意味で万人に開かれた作品なのだと思います。

ゴルトベルク変奏曲の深さ

わかる/わからないというのがあまりにも抽象的だとするなら、必然的にゴルトベルク変奏曲自体の構造の巧みさだとか、バッハがこの作品にこめたアクロバティックな技法とかについての話になる。素人には手の負えない話になってしまうので、ここでは踏み込みませんが…ざっくり言うと、この曲を聴いているとめちゃめちゃ精緻で複雑な建築物を観察している気分になります。

例えば、エンジニアの方なら、複雑な処理が超人的に短く簡潔なコードで実装されているプログラムを見て心が震える、みたいなことはしばしばあると思います。ああいう感じ!あるいは、熟練の時計職人の手になる美しい時計を分解してみたら、目に見えないくらい小さな歯車が複雑に、奇跡的に噛み合って動作しているというような。…ああいう感じ!

とにかく今回の記事でお伝えしたいのは、

グレン・グールドのゴルトベルク変奏曲を買っておけば間違いない。
一回でわからなくても何度も聴いてほしい。必ずわかるようになる!

という2点です。

映像で超好きなのが第10変奏のフゲッタ(小フーガ)
弾きながら左手で自分で指揮をしているグールドさん!

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グールド以外でおすすめしたいゴルトベルク変奏曲の録音が3つあります。しかも、いずれもオンライン上で合法的に無料で全曲聴けるものです。

ひとつは、ドイツ人ピアニストのキミコ・ダグラス=イシザカさんによる「オープン・ゴルトベルク変奏曲」。同曲のスコアと高音質録音をパブリック・ドメインとして無料公開するというプロジェクトで、YouTubeほか関連サイトでmp3としてもダウンロードできます(動画コメント欄参照)。

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もうひとつは、チェンバロ奏者であり楽器製作者でもあるコリン・ブース氏の録音に、MIDIアニメーション研究者で音楽家のスティーヴン・マリノフスキ氏が自作ソフトウェアでアニメーションをつけたもの。

これは、初心者には難しかった声部の聴き分けを視覚的に見せることに完全に成功していて、それだけでも革新的!これも全曲が揃っています(YouTubeプレイリストはこちら)。

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さらに、オランダバッハ協会が主宰するオンライン・バッハ・アーカイブ「All of Bach」で昨年公開された若手チェンバリスト、ジャン・ロンドー氏による同曲の超高音質演奏動画があります。録音として上記を含めた3つのなかでは、私はこれが一番好みです。ビジュアルもすごい。26歳なんだって!

BWV 988 - Aria mit 30 Veränderungen 'Goldberg Variations' - All of Bach
http://allofbach.com/en/bwv/bwv-988/

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