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し『過ぎない』

すべての苦しみと不幸の始まりは、この『過ぎる』ということではないかと私は思っています。

この『過ぎる』というのは、境界線を越えて、バランスを欠いた状態です。

欲は決して悪いものではありません。
しかし、この『過ぎる』を越えた瞬間、欲望を求める気持ちや、結果に対する期待感が強く出てきます。

例えば、健康に気を使い『過ぎる』人も、適度ならいいですが、度を越えると、健康に対する執着や、期待、これだけ頑張っているのだからと結果を求める気持ちが強くなるでしょう。

また、場合によっては、その考えを周囲の人にまで押し付けたり、健康に気を使わない人を見下したり、批判するようになることもあるかもしれません。

満たされている人というのは、現実的にいろんなものに満たされているのではなく、満たされているところ、ある境界線で満足できる人だと思います。

例えば、同じ量しか入らないコップを持っている二人がいます。

一人は、6割水が入ったら満足しています。
なぜなら、その人は6割の水で十分だと考えているからです。

もう一人は、コップいっぱい水が入ったら満足だと考えています。
ですから、6割の水では不足や欠乏感を感じます。

では、問題の水の量です。
水はいつも6割しかないのです。

6割で満足できる人は、いつも十分に満たされて幸福を感じられています。
なぜなら、それが器の大きさに対して満たされる量だとわかっているからです。

しかし、10割コップに水が入らない人は、いつもあと4割も足りませんから、何とかしていっぱいにしようとしたりします。

また、どこかから持ってこようとしたり、いつかコップが満たされるに違いないとずっと期待して待っています。

もう一度言いますが、水は6割しかないのです。

私達の欲望は、どこまでも尽きることのないもので、求めれば求めるほどそれを止めるものはありません。

幸福な人と不幸な人の違いは、自分の器の領分と、それに入る水の量をわかっている人かそうでないかの違い、ただそれだけです。

家柄でも才能でもない、ましてや持っているお金や学歴、地位や名誉があるかないかではありません。

器の大きさと与えられる量がわかっているかどうかだけなんです。

私達はこの与えられた6割が、十分満たしてくれる量だとわかっています。

ただ、時々欲しくなるのです。

あともう少し、もう少しと、気が付くと器の大きさのことも与えられる量のことも忘れて。

もしかしたら、そうであって欲しいという願いの方をみてしまっているのかもしれません。

私はすべては完璧で、完全であると考えています。
それは10割を満たされたから完全なのではなくて、6割ですでに満たされているから完璧なのです。

そもそも、あえて6割で満足するように人間を創られたのは、神の采配としか思えず、それに気が付き、十分に満たされていると感じられるかどうかを見られているようにも思っています。

6割というのは、半分より1割多いですね。

5割でもいいですが、それだとあるとないが半分です。
半分ということは、あるでもないでもどちらでもないということになります。

ある方が1割多かったら、あるですよね。

今がある。
今日という日がある。

ということは、もうそれだけで6割達成です。
今日まで生きてきたということは、もう6割を達成して、ずっとすでにあったのです。

ですから、器の大きさに対して水の量が十分満たされています。

もっともっとと求める気持ちは決して悪いものではありません。
しかし、求める気持ちが強すぎると自分が苦しくはなりませんか。
その苦しみは誰でもない、自分の中からのものです。

なぜなら、私達にはいつもあったし、今もあるのですから。

幸福でありたい、満たされた気持ちでいたいと思うなら、こう認めてみるのはいかがでしょうか。

すでにあったということを。
そして、だれもが本当はそれを知っていることを。

今日もお読みいただきありがとうございます!

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