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何も起こらない

最近は、どこに行ってもご利益信仰というか、どうかこれこれについてお願いしますとか、あれを叶えてください、みたいな考えが多い気がします。

経済が不安定だったり、特に将来について心配があるとそうなることも多いのかなと思います。

様々な宗教、神社仏閣でも、例えば恋愛とか金運、健康、商売繁盛など、それぞれの担当分野の神仏のところに行っては手を合わせているでしょう。

私も出かけることはありますが、その土地やいわれ、建物の歴史が好きだったりするだけなので、手を合わせても、お邪魔しますとか来させてもらってと、感謝するだけにしています。

叶えたい願いというのは、基本的には努力とか、今出来ることをして、あとは人事を尽くして天命を待つの姿勢がいいのかなと思っています。

それでも、叶わない時には、手に入らないものを何とか手に入れようとするのではなく、今はその時期じゃないんだなと思ったり、目の前にあるものを大切にすればいいのではないでしょうか。

例えば、こうなったらいいなという願いが叶わなかったとしても、今日という日に何事も起こらずに穏やかに過ごせたら、それが十分ご利益というか、すでにものすごく守られた生活なんじゃないかと思います。

多くの人が、今の生活よりも上を夢見て、何かを得ることがご利益があると勘違いしているかもしれません。

ですが、私はそうではないと思うのです。

私は時折、今日一日は、実はぎりぎりの境界線のところで生きているのではないかと感じることがあります。

守られたり、支えられたり、導いてもらえているから、今日を何もなく生きられているだけで、その力がなければいつでも大変な状況になるのではないかと思っています。

ですから、いつ何時誰でも、大事に至る出来事に遭遇するかもわかりません。

何事もないって言うのは、実はそれだけで本当にすごいことで、奇跡の連続なんだと感じたりします。

そもそも、今この瞬間に感謝できていないのに、さらに何かが起こったとして感謝できるのでしょうか。

手を合わせて、

『もしも希望のお金をいただけたら、その時は感謝します。ですが、今日一日が無事に過ごせても、そこにはあまり感謝を感じてませんから、何卒お金の方よろしく』

みたいに言われたらいかがでしょう。

私が神さまなら、『え!』ってなります(笑)
わしゃATMかい!ってね。

例えばそこまでは言っていなくても、ご利益信仰って、こういう意味のことを結局はお願いしているような感じもあるんじゃないかなって思います。

まだ、甥っ子が小さかったころ、一緒に近所の神社に行きました。
お守りを買う前に、参拝したところ、

『父さんに渡すお守りをくだちゃい』

と、甥っ子が本殿に向かって、手を合わせてお願いをしていました。

私は大人の頭でてっきりご利益、『○○が欲しい』とか自分のことを願うとばかり考えていたので、それを聞いて、薄汚れた心が一気に清められた覚えがあります。

その時に、ああ本当のお祈りとか、手を合わせるってこういうことだよなって2、3歳ぐらいだったの甥っ子に教えられたような気がしました。

何もない今日一日というのは、私が何にもない、いつも通り、と思っているだけで、実は私の見えないところでものすごい力が働いていたり、たくさんの目には見えない何かによって支えられていると思うのです。

ですから、この一瞬、今日一日、それを感謝できなくて、これ以上のものを得られるはずがない。

欲しいものを欲しがることはわるいことではありません。
しかし、それよりも先に、今あるものの方に目を向けることも必要でしょう。

後は、今日一日が多くの導きや支えの上に成り立っていることを、いつも忘れないようにしたいなと思っています。

いかがでしたか。

今日もお読みいただきありがとうございます!



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