嵐電という映画

嵐電という映画を観た。

そもそもが
主演の井浦新さんの
舞台挨拶が緊急に決まったとの
告知を見て

単なるミーハーな欲丸出しで
観に行った映画だ。

嵐電
とは、京都にある路面電車の通称。

映画は
この"嵐電"を舞台に
3組の男女の物語が交錯しながら進んでいく。

主演の井浦新さんは

『そもそも映画って‬
‪わからないものでいいな』‬
‪『観た方の捉え方でいい。‬
‪その余白が凄くとられている映画』‬

と言い

監督である鈴木卓爾さんは

‪『子供の頃や若い頃の記憶は鮮明に刻まれるが
大人になっていくと、いろんな時間を忘れていくが、強烈に覚えていることは時間が経っていない。そんなことをどう表現するか』

と語る。

一体どんな映画だろう、と
少々身構えてもいた私だが

考えるより感じる
そんな映画なのかもしれないと
答え探しはやめにした。

そう、
監督はわからなくていい
わからなくなったら寝てもいい
と仰っていたのに

ついつい
答え探し
正解探しをしていたのは、私。

そもそも
芸術やエンターテイメントなどの
【 表現 】するものは特に

感じたことはもちろん
表したいことや
現し方は
様々で人それぞれ。

一括りに出来ることなんて
きっとないはずなのに

私は
もしかしたら私達は
一つの正しい答えや出口を
当てはめようとしたり

或いは
用意してもらったりしないと
落ち着かないように
なってしまっているのかもしれない。

当たり前のように
同じ答え
同じ感覚
一つの正解
一つの出口
でなければいけないような

余白や余韻のように

余ること
余るものはないように

時短で効率よく
スピーディーにシンプルに
生きていくことが良しとされる時流に
流されるように生きている私達が

どこかに置いてきて
忘れて生きているものを

ふと
思い出して
もしかしたら
取りに帰ろうかなと
思わせてくれる

そんな
優しい余韻と余白を
たっぷりと含んだ映画。

じんわりと
何度も
違う角度で楽しめるだろうし

観る人それぞれに
違う感覚で観られる映画。

そんな映画との出会いに感謝。