見出し画像

無垢な子を自分の手で汚してしまうことが怖かった

自分の娘、というかけがえのない人を育てることになって、私が常日頃から感じている壁というか喉元に刺さった小骨というか、そういうもののひとつにジェンダーバイアスがある。

母である私自身は、幼少期から今にいたるまで、シスジェンダー(体と心の性が一致している人)であると自認してきた。
一時的にピンクを嫌いになったりスカートを拒否したりしたことはあったが、それはどちらかというと自分を女として見てくる他人の目に気持ち悪さを感じ、「女の子らしいとされる」ものから遠ざかりたいという心理によるもので、性自認そのものが揺らいだ経験はなかった。
ランドセルの色は赤。理数科目が苦手で文系科目が得意。人文学系の学部を受験し、大学院には進まず都内の出版社に就職。表面的にみれば「女の子の典型」とでも言われてしまいそうな経歴をたどってきたが、リベラル寄りの意見を持ち、住宅ローンはペアローン、上昇志向はあまりないものの「正社員」という社会でのポジションは手放さないつもりだというような我の強さを自覚してはいて、ある側面では自分は強者の側に立っているなと思うこともある。

これまで無視されてきたマイノリティへの抑圧や差別が議論の俎上に載せられて、人権という言葉の内実を見直す動きが活発化してきた昨今、無垢な子どもにどんな声掛けをするか、何をどう教えるか、全部がバイアス強化に繋がってしまうのかと思うとくらくらしてくる。
「多様性」をいくら叫んでも社会のシステムがそれに対応するまでには気の遠くなるような時間がかかるのだし(現にかかっている)。リベラルと保守の対立構図になることは避けられず、そしてそれは必要なことでもあり、議論を前に進めるためには感情論だけではもちろんだめで、たがいに聞く耳を持って落としどころを見つけていくほかないのかもしれない。
少なくとも私たち大人は、理性的に議論している姿を子どもたちに示していく必要があると思う。

本当に、本当に悩ましいのだけど、私は当面、娘のジェンダーアイデンティティが「シス女性」であると仮定して接することにしている。
わざわざ(今現在の)マイノリティになるように導くことはできないし、娘が「私って女の子かな? もしかして男の子って可能性もあるのかな?」みたいな感じでアイデンティティが迷子になるような状況を作ってしまうことはしたくない。

月並みかもしれないけど、大切なのは本人がなんらか違和感をもったときしっかりと寄り添うこと。それは自分への違和感かもしれないし、他人への違和感かもしれないし、自分が属する社会への違和感かもしれない。
生きていくうえで何も感じないということはありえず、自分は気にしていなかったことでも娘は気にすることだってあり得る。
そんなとき、なぜそう感じたのか、意見交換してみたい。一緒に考えてみたい。そう思うと今から楽しみだ。生きるって、「自分とは何か/誰か」という答えのない問いを自らに投げかけ続ける営みだと思うのです。

 「友人の出産祝いにベビー服を買いに行ったら、売り場に男の子用とされるブルー、女の子用とされるピンクの服しかなくてびっくり」というジェンダーに紐づけられた色問題はよく耳にする(そうなんだっけ? 新生児の服は白も多かった気がする。白は白で汚れが気になりますけど)。
たしかにムムムってなるけど結局、赤ちゃんのうちは何をしたって親のエゴのような気もします。私はピンクも好きなので着せたいし、もらったら嬉しい。
うーん、気にするならこの辺なのかな。
・この子に似合うと思うものを着せる
・いろいろな色や柄のものを着せる
・自我が出てきたらそれを尊重する

さて、このあたりで最近読んで感動した本の話がしたい。

2024年2月にちくま文庫から出た『さびしさについて』は、写真家の植本一子と小説家の滝口悠生による手紙のやり取りを本にしたものだ。2021年11月から翌年4月までの8往復と、文庫化にあたってあらたに交わされた2往復(2023年7月から11月まで)が追加されている。
これらはたしかに個人的な手紙のやり取りではあるものの、不特定多数の人間が読むことが折り込まれている。私信と文学のあわいに稀有な魅力を感じる。

2021年当時、植本さんには中1と小5になるふたりの娘さんが、滝口さんには1歳を目前にしたやはり娘さんがいて、だから手紙にも子どもの話がよく出てくる。とくに滝口さんによって語られる子どもの話は、近い未来の娘の姿であり、滝口さんが子どもを観察するまなざしは、近い未来の私のものであろうと思われて、いちいち震えがきたり、目鼻の奥がツーンとなったりした。

 滝口さんも植本さんの本を通して同じような体験をしており、彼はそれを「凡庸といえばとても凡庸な感慨」と表現している。

子どもを育てているとそんなふうに多くの親たちがむかしから感じてきたのであろう感慨をなぞる感覚がたびたびあります。(中略)実際に感慨に浸るとき、その感慨はいまのわたし個人のものなのだから、それは個別で個人的な、代えの利かない特別なものであるはずで、そういうときに凡庸な感慨が自分のものになるんだなと思います。

『さびしさについて』 pp.54-55

このような滝口さんの子育ての“今ここ”に逐一反応しながら、いくつも付箋を立てながら一気に読み切った。

「子どもの性別」とタイトルのついた滝口さんの手紙がある。ここで彼は子どもが生まれて間もない頃、たくさんの書類に子どもの性別を書いたり「女」にマルをつけるたびに心理的抵抗を感じたことを語っている。それが「男」であったならあそこまで抵抗を感じなかったのかもしれないとも。

追加されたうちの、「生活」というこれまた滝口さんの手紙があるのだが、興味深くかつ憂鬱な気持ちにもなるのが、2歳9ヶ月になった娘さんやその友達のあいだで行われるコミュニケーションについての滝口さんの洞察だ。その有り様が大人の社会に似てきたというのだ。
日本社会のダメなところ、つまり「ムラ社会的な、家父長的な、軍隊的な同調圧力」が、3歳にも満たない子どもの社会に現れるものなのかとつい項垂れてしまった。こういうことが苦しくて私は子どもをもつことに躊躇いがあったのだと思うから。

でもその後に続く娘さんとのエピソードに希望を感じることができた。私も娘とこんな対話ができる間柄になりたい。

スキやシェア、フォローが何よりうれしいです