アピール下手の生きる道

物知りも賢いも、褒め言葉だと思えたのは小学生までだった。社会に揉まれて生きるいま、知識があっても頭の回転がよくても、うまく生き抜けるわけでないことなんて、わかりすぎるほど思い知らされてきた。

完全に中立で客観的な指標で判断されたころは、たくさん知識があり、頭の回転が早いことで得をしていた。でも社会では、不完全な人間同士が、複雑な力学に影響されながら、絶えず判断を行なっている。

客観的に見れば人間は不完全性から免れないのだが、組織のヒエラルキーに押し込められたり、慣習に染まっていったりする中で、どこか完全性を帯びたように錯覚してしまう。そしてその完全性を持った人間からの言葉や評価は、見えない牙として心を蝕むことすらある。

まずは自らの精神衛生を保ち、また社会全体の幸福総量を増やすためにはどう振る舞うべきなのか。

これは負の回避的な対応だが、理解しようとしないことは一つの手だと思う。人間は不完全である以上、思考によって完全に理解することはできない。人間はわからないことに関して不安を感じるものだ。はじめから理解不能なものは、理解しようとしないことが、精神衛生をまもる上では有効である。

しかしお気付きのように、これはいわば「逃げ」である。問題を根本的には解決しておらず、単に短期的な視点で苦を回避しているだけだ。

前向きな対応としては、ある種の鈍感さを持ち、さらに自分の意思を主張すること。その場や意思決定層の考えと異なっていても、けして恨まれもけなされもしないキャラクターでいること。

ああ、なんてハイコンテクストな社会力の求められることか!

知識をつけても思考を磨いても、そんな人をうまく使える「アピール上手な人」の前では、単なる”努力家”にすぎないことだってある。社会はこんなだって、いつ教えられた?

さあて、何を目標にいきていこうか

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