見出し画像

愛する人たちを手放すとき

フリースクールで9カ月間働き、大きく変化したことは「子ども苦手、好きじゃない」と思い込んでいたことが、「子どもが心から愛おしい、
これからも子どもに関わることをやっていきたい」と変わったこと。

私は、幼少時代の自分が嫌いだった、苦しくて思い出したくない過去で、ずっと蓋をし続けていた。スクールの子どもたちを通して自分の幼少時代に向き合い、「苦しい、悲しい、寂しい、私の事を見てほしい、認めてほしい、愛してほしい、私には価値がない」、そんなネガティブな感情を見つけては絶望したりしたけれど、ゆっくり、認めて、抱きしめて、愛してあげられるようになった。玉葱の皮を一枚一枚剥がすように、認め愛し続けていくと、いつの間にか幼少時代の私を心から愛せるようになった。「今まで気づかなくてごめんね、よく頑張ってきたね、ありがとう、大好きだよ」と今は心から思える。
そしたら、目の前にいるスクールの子どもたちへの愛情が増し、大好きだよ!愛おしい存在たち、と心から感じるようになった。

スクールを辞めると決断したとき、そんな大好きな子どもたちを手放すことに対して、「こんなに愛してくれる子たちを置いていく私は最低だ」と自分を責めたり、物凄く寂しくなったり、悲しくなったり、先への不安や恐怖に包まれたことも多い。出てくる感情に向き合い、本当に辞めるのがベストか?と問いかけたこともあるが、「自分の人生をもっとありのままの私で生きる」という辞める理由に勝るものはなく、私の心はもう決まっていた。

目の前にいる愛する子どもたちに、「ありのままの自分で輝いて、自分の人生を歩んでほしい」と願う私が、スクールに働くことに心の違和感を感じていることを自覚したとき、私は辞めるべきだと覚悟した。そう願うならば、私がありのままの自分でもっと輝き、自分の人生を自分の意思で歩んでいく、幸せな姿を見せていこう、と決めた。
私は幼少期から家族という愛する人たちのために自分を犠牲にして生きてきた。そのことに気づいて家族を手放したのに、私はまた愛する子どもたちのために自分を犠牲にしようとした。愛する人たちのために生きることは、時には自分の幸せに繋がる。でもそこに犠牲を入れてはならない。自分を尊重することで、相手を尊重できる。私には私の人生がある、それを大事にしたい。

愛する人たちを手放すとき、大きな喪失感がある、恐怖がある、寂しさがある。言葉にならない喪失感に涙が止まらないときも、嗚咽するときもある。でも、その先に、私をもっと命のままありのまま自由に生きる、私を大事にする、ということがある。その先に、また新たな愛する素敵な人たちに出会えると、心の奥底では知っている。

大丈夫、私は自分を信じて歩き出せる。人生の財産と思える人たちとの温かく優しい思い出を心に入れて、また私の人生を歩き出す。

よろしければサポートお願いします!いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。