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「布が語る佐渡の暮らし」

2021年6月27日に開催された
「布が語る佐渡の暮らし」講座に参加してきた。

山に、海に、田んぼに畑に
朝日が登ってから日が暮れるまで
1日中外仕事をしていた昔の人の
働くを支えた仕事着。

今のように機械なんてなく、
道具も全て手作りで、
仕事着もすべて手作りした時代。

人力で切り拓いていった重労働を支えた
仕事着はおそろしく丈夫で、ずっしりとした重みがあった。

そんな布や仕事着が現代では
「価値なし」と
どんどん燃やされ、捨てられ、なくなっていることに
主催の若林さんは心が痛み、

ずっと佐渡の民族研究をされてきた
柳平さんを講師にお迎えして開かれたのが
「布が語る佐渡の暮らし」講座。

日程は未定とのことだけど、
7月末か8月頭に第2回、その後第3回も予定されているそう。

当日は、若林さんのお宅の
納屋の軒下、玄関、廊下、家の前に、
ずらりと昔の布や着物たちが展示されていた。

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暮らしと働くを支えたゾンザたち

昔の人たちの仕事着は「ゾンザ」と呼んでいた。

後日、親戚の80近くなるおばちゃんから話を聞いたら、
佐渡の南部の方では「ゾンザ」ではなく、
「ドンコ?」と呼んでいたみたい。

大事なところがうろ覚えで申し訳ないのだけど、
佐渡の中でも場所が変われば仕事内容も違いが生まれ、
ゾンザの仕様も異なっているというから面白い。

それぞれの仕事に合った仕事着が
その土地で必要とされ、取り入れられていたことがわかる。

相川(北部)の方では、
仕事は山へ行くことを意味していたので、
仕事に行ってくる=山に行ってくるで、
仕事着のことも山着と呼んでいたそう。

もはや芸術品!刺し子の技術

そもそも
ゾンザというのは刺し子のことなんだそう。

会場には昔使われてたゾンザが数枚置かれていたんだけど、
その刺し子の縫い目がすごい!!

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5mmに満たないんじゃないかというほどの縫い目が
それはもう緻密に、正確に、しっかりと縫われている。

気が遠くなるほど細かい縫い目で、
いったい1枚縫うのにどれくらいかかるんだろうと
思わずにはいられない。

柳平さんの話だと、
夜の時間に少しずつ縫われていたそうだけど、
1日重労働をこなした疲れで、
縫い始めると寝てしまうこともしばしばだったよう。

けれど、“縫う”という作業は、
すでに身体に染み付いていたから、
うとうとしながらでも手は動いていたなんて話も
聞かせてもらった。

刺し子とは、1枚の布に縫い目を施すのではなく、
木綿の古い布を2〜3枚重ねて針を刺したものをいう。

表面には新しい布を購入してあてがい、
裏地には古くなった着物や手ぬぐいを使ったんだそう。

まさに、最先端のサスティナブルファッション。

本来、刺し子は新しい布を刺したものをいっていたそうだけど、
現在は古い布を刺したものも刺し子というようになったんだとか。

布を重ね合わせ、細かくぎちぎちに縫ってあるから、
その強度たるや半端ない。

重労働や危険から体を守ってくれた。

破れたり傷んだところは、
また新たに布をあてがい刺し子をした。

そうやって長く長く生かして使った。


仕事着の中にもおしゃれを。1枚の布を使い切る

かすりのゾンザは貴重で、
当時若いお嫁さんには新しいかすりの布で
ゾンザを作ってあげたんだとか。

かすりのゾンザはぴちぴちのお嫁さんの証で、
それがどんどん使い込まれていったのかもしれない。

かすりのゾンザはおしゃれアイコンだったそう。

新しい布は、
お嫁さんの実家のご両親が用意することが多く、
お嫁さんは新しい布をもらいに里山に帰った。

ご両親が贈ってくれた布で作ったゾンザは、
まるでご両親に包まれて仕事しているような気分に
なったんじゃないだろうか。

新しい布と古い布を合わせ、
さらに普段着とお出かけ着を分け、
1枚の布を長く使い切った。

傷んだら繕って、
さらに傷んだら子供服に作り替え、
それも傷んだら雑巾や布きれに。

材料はすべて自然から調達

昔は材料の調達からまず違う。

調達というか、
材料を作るところからスタートしている。

木綿や麻を栽培し、
糸は蚕を育てて、
藍で布を染める。

すべて自然の中から生まれ、
自然の中に還っていく。

以前、母の母が作ってたものだと思うという
草をひもにしたものを見せてもらったことがあるけど、
草から糸も作っていたらしい。

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自然とともに、地球環境を大切に。

そんな世界中でいま叫ばれていることを、
日本の先人たちはず〜っと前から
当たり前の感覚でもっていたんだなぁと改めて思う。


イギリスから遥々佐渡へミッシェルウォーカーさん

日本の刺し子研究をされていた
イギリス人のミッシェル・ウォーカーさん。

日本各地に足を運び、
それぞれの土地の刺し子を調査していたけれど、
ミッシェルさんが知りたいことに
明確な回答をしてくれる人はいなかったんだそう。

そんなミッシェルさんが諦めきれずにたどり着いたのが
佐渡の柳平さんだった。

柳平さんは、
ミッシェルさんが聞きたかったこと、知りたかったこと
すべてに答えてくれた。

「やっと見つけた!わたしが探していた人はここにいた!」

ミッシェルさんは心から喜んだそう。

そんなミッシェルさんと柳平さんの出会いから、
イギリスでの「日本の刺し子展」が実現することになった。

40点以上展示された刺し子の半分近く、
約20点ほどは佐渡の刺し子だったそう。

実際のところ、ミッシェルさんも柳平さんも
刺し子がイギリスの人に受け入れてもらえるのか
半信半疑なところがあった。

けれど、刺し子の縫い目、
何度も繕い、つぎはぎされ、使い続けられた
仕事着から発せられるオーラは凄まじく、

イギリスの方からもたくさんの感動のメッセージが
寄せられたんだそう。

人間の身体のかたちが分かるような色の落ち方をしている刺し子は、
どんな人が来ていたのか?
どれだけ着たのか?
どんな仕事をしていたのか?

そんな想像を自然と想起させるのかもしれない。

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後日、実家に帰って母にこの話をした。
そしたら、家にもあるという。

亡くなったおばあちゃんがまだ生きてた頃、
「それはもう処分していい」といった刺し子を

もったいない精神で生きている母は、
状態のいいものは取っておいたんだそう。

この講座に参加する前のわたしなら
「誰が使うの?処分したら?」
と間違いなく言っていた…


けれど今は、捨てずに取っておいてくれた母に感謝!!

今度、講座を主催された若林さんのところへ
持っていこうと思う。


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