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【パリ1日1話】 12 行きつけのカフェの話

行きつけのカフェを作ろう。3年前にこの界隈に住みだしたときに決めた。行きつけのカフェがあるって、なんかカッコいい。せっかくパリにいるんだもの、ヘミングウェイがモンパルナスのブラッスリー クロズリー・ド・リラに通ったように、私もテラスで原稿書いてみたりしたい、というミーハーすぎる動機。

行きつけというからには、家の近くがいいだろう。パリにだってサードウェーブの風が吹き抜けていて、イケメンやおしゃれ女子がサービスしてくれる今どきなカフェもいっぱいある。まずは入りやすいそこらに片っ端から行ってみたが、あんまり居心地がよくない。そうしてしばらく、毎日カフェを転々とした。

地元民が集うごく普通のカフェも、なんかいい。下町らしい風情だ。カウンターにはクラピッシュの映画に出てくるような、おせっかいな飲兵衛がいたりしそうだし。でも、注意したい。知る限り、パリの多くの店ではコーヒーが不味い。町場ではだいたいエスプレッソ2ユーロほどが相場で、ケチるほどの値段ではないにしても、コーヒーが不味いのは許しがたい。飲まないほうがマシだ。私はカフェで仕事や読書がしたいので、ビールなどアルコールに逃げるのはナシだ。紅茶はティーパックのくせに5€くらいしたり、ちょっと高い。家ならほぼタダなのに。

あるとき散歩していると、家から一番近くの交差点にある飾り気のないカフェのカウンターに、ミントティーの容器がおいてあるのが見えた。一応の清潔感は見て取れるが、椅子もテーブルも素っ気なく、可愛らしさはない店だ。簡単にいうと、ダサい。公民館や市役所の食堂、喫茶室を連想させる。その容器とは、ミントの葉を入れた甘い紅茶を作り置きした大きめの銀色の筒のようなもので、普通のカフェではあまり見かけない。ちなみに、ミントティーのことをフランス語では「テ・ア・ラ・モント」という。アラブ系の店によく置いてあるものだ。ミントティーか、家では飲まないし、これは手かな。しかも、その筒に白い紙が貼り付けてあり、1.4ユーロと書いてある。これなら毎日でも飲めそうだ。一度入ってみようと決めてから、何回も前を通った。なにしろ年齢層が高く入りにくいのだ。外から観察する限り、メイン客層は少なく見積もっても65歳オーバーと言っていい。夕方、バーカウンターにビール一杯ひっかけにくる客は、だいたい労働者風のおっさんだ。入りにくいじゃないか。

いやしかし、夢の行きつけのカフェを実現しなければならない。街になじむ第一歩だ。ある日、意を決してドアを押してみた。ガラス製だが、気のせいかずっしりと重い。しかし、もう引き返せまいぞ。がんばれ、私。

まあ今から思うと、40も過ぎたいい大人が、なにをカフェに入るくらいで戸惑っているのかと情けなささえ感じる。しかし、その初めて入った瞬間のことを思うと、いまでも心拍数が上がるのだ。それまでおしゃべりに興じたり、新聞を眺めたり、鉛筆片手に数独に没頭していた客たちが、一斉に私の方をジロリと見るのである。ああ、これ知ってるな。常連ばかりの小さな居酒屋に入ったときの気まずさだ。見えない共同体のバリアを知らずに踏み込んでしまった感じ。パリにもあったか、この所在なさのかたまり製造機が。東洋人の娘っこが入って来おった、という視線が店中から飛んでくる。まあ実際はけっこうな年齢なんだが、フランスの人々から見れば東洋人は常にヤングである。

向けられる視線に耐えつつ、テーブルにつき、店のマスターが注文を取りに来てくれるのを待った。品の良い白髪の紳士風のマスターはゆっくりテーブルに近づき、とてもにこやかにご注文は?とたずねた。私は発音に気をつけながら、正確に言った。「テ・ア・ラ・モント、シルヴプレ」。透明の小さな器に入ったミントティーは、甘党でない私にとってはかなり甘かったが、しかしその甘さにじんわりと癒やされた。私にもできた。なんだかよくわからない達成感に満足した。

それからというもの、数回にわたりそのカフェに入り、毎回ミントティーを頼んだ。そのうち、マスターから店に入るとすぐに「ミントティーでしょ?」と言ってくれるようになった。やった、これ常連じゃないか?みごと目標達成だ。

今では落ち着いて周りを観察できるようになった。本や仕事を持っていくが、ほぼ小道具と化している。壁にはモンマルトルの風景が大きく描かれていて、そういえばここはモンマルトルのはずれだったなと気づかせてくれる。常連たちはビールやワインを前に、くだらない噂話や新聞やテレビでみたばかりのニュースやゴシップについて話をし、世も末だといわんばかりに全員で芝居がかったため息をつく。相変わらず私以外の東洋人の客を見ることなく、今でも店に入ると注目を浴びてしまう。しかし、それにも慣れて、いつもここと決めている明るめのテーブル席に、すっと抵抗なく座れるようになった。マスターは常にニコニコしており、たまに二杯目をごちそうしてくれたりもする。二杯目のミントティーもやっぱり甘い。だが、親切心をムダにするのは主義に反するので、甘さを全身に感じながらも、ありがたく飲み切る。店に入らなくても、前を通りかかると「ボンジュール!ごきげんいかが?」とお互いに挨拶をするようにさえなった。

この街に住んで3年。くだらなくも、小さな冒険を毎日繰り返してきた。ほんの少しずつだが、ここが自分の居場所だと感じられるようになった。





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