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思い出のゆくえ

幼い頃、私の家庭は少し荒れていた。今思えばよくある光景なのかもしれないけど、幼い私に逃げ道はなく、そんな時に、私を支え愛情を注いでくれていたおじさんが2人いる。

竹を切り、竹とんぼを作り、流しそうめんのやり方を教えてくれた。
サワガニを捕まえ、茹でたら食べれると教えてくれた。
裏の川でさかなの捕まえ方を教えてくれた。
何より、おじさんが体育座りした膝の中に収まるのが大好きだった。
おじさんのムキムキの腕にぶら下がるのが大好きだった。
おじさんが私だけに分かる暗号で冗談を言うのが大好きだった。

東京の近くで育ちながら、木の上で寝たり、森で遊ぶのが好きだった私には、秩父の記憶にすごく愛着がある。

私のアイデンティティの1/3は秩父で生まれたと言っても過言ではない。

一人は十数年前に亡くなり、
もう一人のおじさんが先週ガンで亡くなった。末期がんと分かってから1ヶ月。両親のインフルエンザが落ち着いてから、今月は秩父と実家を行き来した。去年の夏に会ったときは、びっこ引いてたけど、まるで元気そうだった。

亡くなる数日前に訪ねたとき、おじさんは、痩せこけながらも、、私を認識して、オッケーサインを出した。そして、子供の頃と同じく、私にだけわかるジェスチャーで冗談を言った。

看護婦さんが、あの人はホントに我慢強い人だと教えてくれた。ご飯が食べられず、何も話せず、ただただ体の痛みに耐えるおじさんが、そんな状態でも尚、私を笑わせようと冗談を言ってる姿に、涙を堪え笑うのが精一杯だった。

おじさんは貯金がほぼ無い状態にもかかわらず、江戸より前から続くお墓がある、家の向かいの畑をソーラーパネル設置に貸してくれという話に乗らなかったらしい。動けなくなって、初めて兄弟に助けを求める連絡をした。

おじさんにとって、思い出の場所なんだろう。じいちゃんばあちゃんから受け継いだ土地をお金よりも大切に思ってたんだろう。古いボンボン時計も未だに大切に使ってて、昔の黒電話が使えなくなってからも、大事にとってあった。思い出や想いを大切にする、そういう人だ。

そして、私にとっても思い出の場所。
じいちゃんとばあちゃんは別々に倒れ、別の施設に入っていたが、じいちゃんが倒れてまもなく、後を追うように倒れたばあちゃんは、死に際にじいちゃんの枕に立ったらしい。死んだことはもちろん、病院にいることさえ知らせてないじいちゃんが、ばあちゃんが死んだ翌日だけ、「昨日、よね(ばあちゃん)が来たぞ」と言ったらしい。

苦労を重ねた夫婦の思いは強いなと思った。

そんなこともこんな事も、全ては秩父で起こっていて、家だけを見たら、築100年級の、負債でしかないぼっとん便所にトタン屋根の長屋に私は今でも愛着を感じている。

私はここで多くのことを学んだ。本当に大事なことは、ほとんどここで学んだと思う。

おじさんは、いつまでも、私の大好きな大好きなヒーローだ。

#週1note #思い出 #古民家
https://note.mu/hiromi_okb/m/m8234034cfdb7

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