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生きることより死ぬことを学ぶ時代かも

毎日何らかの〆切に追われています。
〆切の日に提出しますんで(←最初に言っとく)、各方面の方々、その日までお待ちください。
「待たせながらも、エッセイとかは書いちゃうんですね」と言われちゃいそうですが、その通りです。

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さて、そんな日々に、叔母の介護に関する諸問題が発生しました。
予後が悪くなることはわかっていたのに、かなり無理な手術をした叔母。
病巣は取り除けたけれど、予想通りほぼ寝たきりになりました。
家族はそのことを予想していたのかいなかったのか、上手く対応できずに、終始キレてしまう。
寝たきりの叔母は、家族に悪いと思って黙ってしまう。

あることなんだろうなぁと思います。
姪である私のところにも、私の母を介してヘルプが飛んでくるけど、母も辛そう。
これが望んでいたことなのかな、と思う場面がたくさんありました。
でも、生きるってそういうことなんだとも思います。

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人は幸せに生きることを望み、「幸福を感じるにはどう生きればいいのか」を知りたがるけれど、
私は「人はいずれ必ず死ぬ」ということを受け入れることが、そこにつながるのではないか、と思っています。
生きることを学ぶことと同じくらい、死を学ぶことは大切なことだと思います。

死について親と話をすることはタブーだった時代があるけれど、私はなるべく積極的に母と死の話をするようにしています。
「お父さんのように自宅であっさり死にたい。認知症になったり寝たきりはイヤ」と言うので、
「今飲んでる心臓の薬をやめたらすぐ逝けるよ。でも今は生きることを決めているんだよね。」と返したり。
結構冷たいと思われるかもしれないけれど、そういう風に話をしています。

きっかけは、私ががんの治療をしたときに、遺書を書いたことからスタートしています。
家族と親しい友人に向けて書きました。

そして、取引先にはすべて事情を話しておいたけれど、念のため。
書いたものは母に託しました。
「こんなの、やめてよ」と言われたけれど、伝えておくべきことがありました。

といっても、書いたことは、

「ごめんなさい。
 約束の日に登壇できなくなりました。あと、よろしくお願いします」

遺書は渡すことなく、今日も久しぶりにnoteを綴ることができています。

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もし、不慮の出来事で明日死んでしまったら、と想定して、今のところ後悔することがあるとすれば、
①PCの検索履歴を見られる可能性があること
②部屋が汚いこと
くらいです。

仕事は、意外ですがどうでもいいです。どうにもならないからです。
そして、私一人がいなくなったところで、どうにかなることがわかっているからでもあります。
さっきの遺書のスタンスくらいです。
そんなくらいで生きています。

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だからやっぱり、提出物は〆切日に出します。
夕焼けが美しい日は、空を眺めるほうが先です。

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