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2/14/24(水) 基隆のマトゥア

 初五。除夕からはじまるお正月休みの明ける日で、普段なら会社もお店も拜拜をして通常営業スタートだが、今年は春節に土日がかかっていて、カレンダーでは振替休日で今日もお休み。とはいえ昨日ぐらいから開いてるお店も増えてきた。永康街も混み始め、鼎泰豐にはもう行列。このお店は私が子どもの頃に開店してからずっと混み続けていて尊敬する。店舗拡大しても大行列。今日は財神の誕生日で、家をよく掃除し(外から内へ!)、ゴミ出しをし、餃子食べるとよいらしい。餃子は古代のお金と形が似てるので、餃子食べる=財神の誕生日をお祝いしてることになるんだとか。小籠包でもいいのかな。うちは今夜は水餃子!

今日の東屋は二胡おじさんのもの。
サックスおじさんはおやすみかと思ったら、少し先の木の下にいた。

 さて昨日のnoteで基隆で旅が始まったところまで書いたので、その続き。

 正濱教會で、マトゥアがパワポを使って今回の旅の説明をしている。マオリの若者たちは、YRをすでにマトゥアと呼んでいる。お父さん、先生、おじさん、リーダーなど、マオリ語で年上の男性に尊敬の意を込めて呼ぶ敬称が matua らしい。音や字面は英語のmatureを連想させる。去年台湾に来たマオリの先輩たちが、台湾に行ったらマトゥアに会ってくるといい、とYRについて色々話したそうだ。YRはすでにマオリのマトゥアになっていた。

 マトゥアの話のわかりやすさには、人を惹きつけるものがある。ゆったりとした語り口で、大事なところはくり返す。ゆったり&くり返しなので情報量は限られるのだが、不思議と、それをただ聞いているこちらは、もっとさくさく続きを、とあせる気持ちにならない。次の話に行く前に、今マトゥアがした話をしっかり受け取めることができるスペースをもらっているような気分になって、車座でパワポのプレゼンを聞いているだけなのに、対話しながら進んでいる感覚がある。

 このウォーキング・ツアーは、海辺の港町である基隆からスタートし、標高2000m近い新竹のタイヤル伝統領域へ、5日間かけて訪ねる、台湾という島の生物文化が、ここに住む人間たちも含めて、歴史の中でどのように多様であり続けてきたか、みんなで一緒にいろんな場所を歩き、そうして同じ場所を共に旅することによって、知り、学び、話し合おうという目的で旅がデザインされていた。

 マトゥアはゆっくりと、彼の知る基隆の話をした。彼は基隆のこのあたりで育った。すっかり眠そうな海辺の田舎町だが、マトゥアが子どもの頃は、ものすごい大勢の人間がひしめき合って住んでいたという。マトゥアの父親は正濱教會の牧師だった。彼らは今教会が立っている場所に住んでいて、目の前が海で、そのまま走って飛び込むことができたそうだ。ちょうどその海だったところを私たちはバスで通ってきた。

Time 10:00-12:00 正濱漁港導覽解說 Zhengbin Fishing Harbor
Location 正濱漁港 Zhengbin

今回の旅のしおり From Mountain Top to the Sea Edge: A Homeward Perspective
Maori-Taiwan Eco-Arts Workshop 1/30-2/3, 2024 より

 教会を出て、漁港へ向かう。マトゥアがプレゼンしている間、3階の小窓からパワポを操作してくれていた正濱教會の牧師さんが、この日はもう教会の用事もないのか、買い物袋を下げて向こうの通りを歩いていくのが見える。

 基隆の海岸線は入り江が続き、入り江ごとに漁港がある。あの日みんなで基隆のあちこちを歩いたり立ち止まったりしている間、マトゥアは何度も「海岸線には入り江が続き、入り江ごとに漁港がある」と、私たちに伝えた。

 Bay、fishing Harbor、bay、fishing harbor、と私たちに何度もくり返すマトゥアの声を思い出しながら、今これを書いている私の頭の中には、小坪、鎌倉、腰越、西浦、片瀬、茅ヶ崎、日本で住む藤沢の町の近くの漁港が連なって浮かんでいく。どの漁港の名前にも私は愛着を感じている。腰越から茅ヶ崎まで、自転車で海岸に行ったり、釜揚げを買いに行ったりする。漁港はないが、近所の鵠沼海岸にも堀川網の船があって、私はいつも堀川網へ歩いていって、生しらす、しらすの禁漁期間は釜揚げ、天ぷら、冷凍庫からゆでひじきやイワシを取って、時期によってはメカブ、マメアジを買い、気分がいい日はケースの中の、マグロのお刺身を買う。

 台湾にいると、よく出会う日本が二つある。植民地政府日本。戦後日本。その二つはもちろん連続して同じ日本だが、台湾にいると、もしかしたらこの国では、少しの断絶をはさんだ二つの日本があるということにしていて、そうやって人々は日本をひとまず受容しているのではないかと考えることがある。だけども日本人はもちろん断絶なく日本人であり、今の私たちは植民地政府の先にいる。

 教会でマトゥアは、日本植民地時代の基隆の話をしていた。
 正濱漁港には、台湾が日本の植民地だった頃、日本、つまり植民地政府がここに大規模な予算を投入し、近代的な漁港「基隆漁港」として整備した歴史がある。その成果あって、当時の台湾最大級の漁港としてこの町はものすごく繁栄していた。

 "So the colonizer, the Japanese……"

と話し始めたマトゥアは、話をそこで一瞬止めた。
 輪の中の私を見つけると、笑顔で言った。
 
 "Sorry!"

 まるで「まいど!」と帽子を脱いで挨拶でもするような感じで。
 ちょうど自己紹介タイムの中で、私は自分の父親が日本人で母親がタイヤルのハーフなんだとみんなに話したところだった。並んで座るマオリの若者たち、漢人の学生たち、ルカイ、アミ、タイヤルの台湾原住民たちも、いろんな顔が、マトゥアと一緒に私の方を見て、口を開いて笑っていた。その輪の中で、私は一緒になって笑っていた。ちゃんと名指しをしてくれて、むしろ助かる思いだったのだろうか。

 「大丈夫!父のこと、colonizer のことなら私がよく知ってるから!」

 考える前に、大きな声が出ていて、あれっと思った。
 大きな声が私より先に出ていったみたいで、私は、みんなの笑い声が、だんだん小さくなって消えて、マトゥアがまた正濱漁港の話の続きをするまで、一緒になって少しずつ笑った。


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