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2/7/24(水) ひとつの門

 明日から旧正月の休みに入る。今年の春節は2月10日。母は今朝も市場に行ったけどものすごい人で、午後でも買えるものは午後また買いに行く、といったん帰ってきた。
 
 午後、家を出るとちょうど雨が降り出してくる。2月の雨なんて日本では気が塞ぐが、台北ではちっとも寒くなく、出かけるのが苦にならない。
 東門市場の入り口にある母のお気に入りの鶏の店で、サトウキビでローストした鶏を丸1匹買う。
 「小一點的」
とお店の人に言うと、ずらっと並んだローストされた丸鶏の列の中から、これがきれいかな、色が濃いめのが好きならこっちもいい、とお店の人がおすすめの鶏を母と私に見せる。トサカ、長い首、きれいな形に整えられている。目もきれいに閉じられて、眠ってるみたいでかわいく見える。おばあちゃんの死化粧を思い出す。生きてて毛が生えてる状態だとわからないけど、ニワトリってこんなに長い首をしている。
 
 閩南人は春節の前に拜拜をする習慣があるらしく、鶏、豚、果物、お菓子、飲み物、紙のお金などがいる。拜拜が終わったらお供えしたものは自分たちで食べるので、お供えには自分が食べたいものを買う。こういうのは漢人の習慣で、母も私もよくわからない。拜拜のやり方は、近所の食料品店のおばさんに聞く。お菓子と飲み物、紙のお金をついでに買えるし、普渡(台湾のお盆みたいなもの)の時はここの里(町内会みたいなもの)を代表して食料品店のおばさんが一括で拝んでくれるシステムもあって、それにうちの分もお願いしている。

 クリスチャンは旧正月を祝わない。もともとタイヤルに旧正月なんてなかったし、今ではタイヤル含め原住民のほとんどがクリスチャンなので、原住民の部落に行っても、旧正月を祝う風習もなく、旧正月気分はどこにもない。今回マオリの若者たちと行ってきたタバホ、タイヤカン、スマグス、チンスブ、どこにも春聯も貼っていなければ、赤字に金で「福」とか「春」とか書かれた飾りも下がっていなかった。そのかわり、どこの部落にも教会がある。
 台北の教会は、クリスマスからひと月以上経った今も、クリスマスの飾りつけもイルミネーションがまだそのままついている。たまたまなのか、それとも漢民族の色彩感覚のせいか、クリスマスリースの赤いリボンの赤の色味、金色のベルのキラキラ具合、飾りつけの全体的な派手さ、賑やかさは、なんとなく春節を祝う飾りのようにも見える。実際、クリスマスの飾りが教会から外されるのは旧正月が終わってからだ。

スマグスの教会。

 
 おじいちゃんがまだ生きていて、母がこの台北のマンションにおじいちゃんを呼び寄せて介護をしていた頃、いったい何がきっかけだったか、おじいちゃんが、

 「同じ門をくぐって、同じ屋根の下に住んでるんだから、私たちもカハツのガガを一緒に守らなくちゃいけない」

と言った。カハツというのは私たちの話す四季タイヤル語(他の地域のタイヤル語と突出して違う)で閩南人のこと、ガガというのはタイヤル語で掟のことことだ。この台北という平地は今はカハツたちが住む土地であって、その土地に建つマンションに、カハツたちと同じ入り口から、同じ一つの門をくぐって、同じ一つの屋根の下に共に住んでいるわけだから、私たちはタイヤルであっても、同じ家に住む者の一員として、ここに住むカハツたちの掟も、共に守るべきだ、ということだ。

 タバホで、スマグスで、チンスブで、部落の長老や教会の牧師たちが、マオリ、台北、基隆、アメリカ、タロコ、ブヌン、日本、フィンランド、と様々なわけのわからない場所から来た20数名の私たちに、いつもこう言ってくれた。 

 私たちタイヤルのガガでは、同じ門をくぐって一緒に過ごす人は「一家人」だ。だからあなたたちは私たちにとって他人ではない。外国人でもない。あなたたちは一家人ですよ。よくここに来てくれた。

 私は、ここまで一緒に旅をしてきたマオリの若者たちが、彼らの信じる「ハワイキ・パマオマオ」の地で、このようにしてしっかりと迎え入れられたことに対して、とてもしあわせな気持ちになった。タイヤルの長老たちが、タイヤルのガガをこういう言葉にして伝えて客人を歓迎することができるということに対して、やはりとてもしあわせだったし、誇りに思った。

 そして私自身、はじめて行くタイヤルの部落で、親戚も友人もいないタイヤルの部落で、自分も他のみんなと一緒に迎え入れてもらえることに、心の底からほっとしていた。同じタイヤルといっても、かつて激しい敵対関係にあった場合もある。そして私は、半分日本人だ。

 ほっとするというのは、つまり、私が今までずっと自分の中に、自分が半分日本人であるということ、自分の半分が、タイヤルを暴力的に支配し、タイヤルから略奪した日本人であるということに対して、どう拭っても拭いきれないしみのような罪悪感が、太くて固い根を、深く広くはりめぐらしているということだ。
 こんなに根をはりめぐらせて、この根っこの上は、地上に出ている私は、いったいどうなっているんだろう。こんなに根っこがすごいのだから、きっと地上も太い幹で、立派な枝からふさふさ葉っぱを繁らせているんだろうか。いったい何の木なんだろう。木は木として、夏は誰かが休める日陰をつくって、秋や冬には落ち葉をふかふか落としているならいいけれど。そこへ私も時々休みに行けるといいな。同じひとつの門をくぐって。


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