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星野源fワード論争について考えてみた

こんにちは、えりんぎです。

本日は星野源fワード論争について考えてみたいとおもます。

はじめに、コレは私個人の意見です。

この論争は賛否両論ある論争なので私の意見を批判する人もいてもおかしくないと思います。

なので一個人の意見として聞いていただければ幸いです。

では本日もよろしくお願いいたします。

参考までに星野源fワード論争とは

星野源さんがプロデュースし、商品化されbeamsで売られる商品に大きく「Fワード」が乗っていることから始まりました。

星野源さんが去年リリースしてSame Thingの歌詞にもFワードがあります。その歌詞から今回の商品化に至り、星野源Fワード論争に発展しました。

私は自分の考えとtwitterで発見したファンの反応を参考にしながら今回は自分の疑問をここでまとめていきたいと思います。

その1:歌詞にFワードを入れるのは容認し、可視化した「商品」というものにFワードを入れることになぜ過剰に反応するのか

星野源さんが去年リリースしたSame Thing。自身の初フル英語での楽曲であり、源さんの海外を見据えた楽曲でもあるように感じました。

しかし、本当に海外を見据えた、海外に出たい!と思うのであればFワードを避けるのは当然のこと。そして「海外に出たい!」という思いが強ければ周りの大人もFワードを入れることを止めると思います。

ではなぜ源さんは楽曲の中にFワードを入れることにしたのか?

それは海外進出よりも彼の自分の音楽を形にしたい。自分の表現したい世界を表したい。

という思いが勝ったからだと思いました。

海外でFワードの認識についてこんな興味深い記事を発見しました。

まぁ、いきなりド定番の表現ですね。「くたばれ!!」「死んじまえ!!」海外のドラマや映画では、ほぼ必ず耳にするお決まりの表現です。この表現、日本語でいうところの「くたばれ!!」「死んじまえ!!」よりも強いです。面と向かって人に使う場面を、筆者は見たことがありません。人に向かってガちなトーンで使ったら、ほぼ間違いなく何かしらのトラブルに巻き込まれるのではないでしょうか。モノに対して当たる際、冗談で言ったりするのはまだアリかなぁと思います。https://tabippo.net/english-taboo/

また楽曲でのFワードに関するこんな面白い記事も発見しました。

かの有名なビートルズもfワードを載せていたみたいです。

やっぱりアーティストは何かネジ取れた表現をするんですね。


次にTwitterを元にしたファンのリアクションをまとめます。

Same thingがリリースしたときの反応はこちら。

例1:どの曲も最高に素敵でカッコ良い。

例2:どの楽曲も個性があって素敵でした。

例3:何度も聞いています。

(今回は星野源さんのTwitterにリプライしている人を対象に比べてみました。引用ではなくまとめています。)


そして今回のFワードが書いてあるときの反応はこちら。

例1:何か起こった時に無責任すぎる。

例2:あまりにも大胆すぎるFワード。ファンの気持ちも考えて欲しい。

例3:着る人の安全が保証されないデザイン

(今回は星野源さんのTwitterにリプライしている人を対象に比べてみました。引用ではなく、まとめています。)


音楽を聞くことは自由です。どんな音楽を聞いたっていいじゃないか。

だから楽曲に変な歌詞があるものでも聞いている分には我々に「責任」はかかってきません。

しかし商品というのは自分たちが日常的に着用するものです。

我々は服というラベルを通して「自分がどのような人間であり、自分はこういう価値観ですよ」と社会に見せているように感じます。

だから服に関してはここまで賛否評論あるのかなと個人的解釈しました。


その2:「着る側の人を考えて欲しかった」という意見が目立つ

コレに関してはファンの過剰応援の証拠ではないかと思います。

アーティスト ー ファン

この関係性が

教祖 ー 信者

の関係性に見えることがあります。

それは過剰応援の影響があるのではないかなと推測します。

アーティストがいいと思った曲をファンが聞く

アーティストが販売した商品をファンは全種類買い占める

アーティストがいいと思ったことを全力でいいと思いこむ

アーティストのためにファンがお金を使う

本当に個人的な解釈なんですけども日本人って絶対的に信じる神様がいない、でも誰かを頼りにしたい

そうだ、好きなアーティストを教祖にしちゃえ

そいつに一生ついていくんだ

って言う人いるんじゃないかなって思います。

ついて行こうと思った教祖が自分とは本当は違う道を進みそうになっている

着いていける自信がない、でも着いていきたから道を踏み外して欲しくない

「着る人を考えて欲しい」

と言う意見が生まれたのではないかなと考えます。


その3:ファンの価値観を押し付けて本来の源さんの表現したいことを制限していいのか

ファンの気持ちを汲み取ることもファンに支えられて成り立っているアーティストという性質上、必要になってくるアーティストの要因となると思います。

しかし、そのファンという立場をある意味「利用」して源さんの表現したいことを制限して良いのでしょうか。

例えばこの商品が販売されることによって

ファン「私星野源さん好きなんだよねー」

ファン以外の人間「えwあのFワードばっか言うやつ??あんなの好きなの???Fワード野郎じゃんww」

と思われ、ある意味源さんの社会的イメージが悪くなり、それを支えている自分たちのイメージが悪くなると思っていると仮定します。

そして、源さんの本来のイメージを知っている人はそれを払拭したい、そして自分たちのイメージも戻したいと思い、このFワードに過剰に反応しているのかもしれません。

もう一度言いますが、星野源さんはアーティストであると思います。アーティストは一般的というか頭のネジが2、3本外れている人たちだと思います。

一般人の価値観を押し付けて制限してしまうのは良い頭のネジのはずれを正常に戻す行為で、活動を制限してしまうようで怖いです。


その4:我々一般人の価値観を押し付けられた表現者は本当に表現者と言えるのだろうか

もう一度言いますが、表現者はファンに支えられて活動ができていることは周知の事実であります。

しかしファンの気持ちを忖度しすぎて一般的な価値観を押し付けられた表現者はただの「一般人が求めていることを代表して表現する人間」に成り下がってしまうのではないでしょうか。

「周りがこういうことを求めているから」と周りの反応ばかり気にする表現者に周りがさせてしまうのではないのか、少々怖い部分があります。

しかし周りの求めていることを汲み取りながら想像以上の作品を作り出すのが星野源という男です。

しかしそれで源さんは納得するのでしょうか

源さんはハッピーなのでしょうか

本当に作りたいものを作れない源さんをファンは喜び、虚構の源さんの姿を見て歓喜するファンの姿を源さんは本当に見たいのでしょうか。

ちょっと表現がオーバーすぎましたがコレは最終形態です。

最悪の場合の話をしました、すみません。

ファンは喜んだところで源さんが一人葛藤するのは辛いな。と思います。


その5:我々も「買う、買わない」の選択肢があるということを理解するべきではないだろうか

そうです。我々も「選択」できます。

嫌なら製作者を批判するよりは

「変なのwww絶対着ないから買わないわww」

くらいで良いと思います。

買うか買わないかは我々の選択です。

嫌なら買わなければ良い話。

もうできてしまったものはできてしまったもの、世に出てしまったものと認識し、それをどうするのか、買うのか買わないのか、選択するのは我々消費者です。


私の個人的な星野源さんFワードに関するコメント

私はSame Thing自体そもそも自分のテイストではありませんでした。

初英語の楽曲ということもあり楽しみにはしていたのですが、マレーシアの友達に聞かせると心配という声の嵐。

「この人はfワードの意味を理解している?大丈夫?」

と言われたんです。

そりゃそうだよなwと思いながらあまり聞かずに、Same Thingに入っている「サラシモノ」ばかり聞いてみました。本当にサラシモノ大好き。

あの「イヤモニで閉じこもってまた自分のせいって気付いてる」っていう表現

あんな言葉のセンス、本当にくれよ!って感じになります。

なので今回のFワードののった服を商品化したこと知ったとき別にどうでも良かったんです。この領域は私の理解を超していて、一生理解できない部分だと思っていたからです。

「また、たいそうなものを作ったな源さんはwどこまで攻めるんだwおもろw買わないけどw」

っていう風にしか捉えていませんでした。。

なのでtwitterで星野源と検索するまでこの服がここまで論争として発展していることを知りませんでした…

買わなければ良い話。

買う買わないは自分の選択だと思うので、もし買って着て何か巻き込まれて、それを作った源さんのせいにするってどうなんだろう…

単純に受身すぎないか??

と思いました。

大島優子さんもFワードの帽子被っていらっしゃったときありましたよね

ということはFワード商品は源さん以外にも販売されている方がいらっしゃるということです。

あと考えてみると日本にはたくさんの英字Tシャツが売られています。

例えばコレ

コレをきて何か巻き込まれたら作った側の責任にするでしょうか?

星野源さんが作ったという製作者側が可視化されたことで私たちはこんなにも製作者の責任にするのでしょうか

買うか買わないかは我々次第、どこでいつ着るかも買った人次第。

私はあまり自己責任論は好きではありませんが、今回ばかりは自己責任と言わざるおえない気がします。服は自分の好みを社会に見せるものです。別に変なもの、好きじゃないものを買わなくても良いんです。変なものを作った製作者を攻めるのはなぜだと思ってしまいます。流石に受身すぎるかなと。


まとめ

Fワードに関して様々な意見があることはtwitterを通して理解できました。

様々な意見はあるべきだと思います!非常に興味深かった!

【追加です】

私と違う考え方の方で

「着用したことで何かあった場合源さんがメディアに叩かれること、それが星野源の表現する場所を奪うのではないか」

と考えていらっしゃる方がいました。

すごく興味深いです。全く考えていなかった視点を与えられて気がして。

この考えの違いを私が「攻めの姿勢」を重要視しているのであればあればこの考えの方々は「守りの姿勢」を重要視しているのかなと考えました。

考えられるリスクを表現者のために表現者の起こり得るかもしれない未来を中心に考える、この思いを根本においた考え方なのかなと捉えました。

攻めの姿勢を重要視している考え方も、守りの姿勢を重要視している考え方も根本にあるのは

「源さんが大切」

ということです。しかしその大切というベクトルが違うのかなと感じました。

リスクを考えることも重要です!そりゃ源さんの表現の自由を奪われる姿なんて見たくない!バイキングとかで坂上忍とかサンデージャポンでテリー伊藤さんに叩かれている源さんを見たくない!!!

なんかその姿を想像するだけで今ムカついてきました笑

考え方、何を重要視するのかで問題に対する捉え方は変わってくる、そう捉えます!そして「攻め」の姿勢を重要視している私の考えでは

「どんなリスクがあっても源さんが決めたことを尊重したい!」

ということです。

これは答えは一つになることはあり得ませんが、私は源さんが自らの意志で決断した行動を尊重し、見守りたいと思います。



源さんが人格者であり素晴らしい表現者であること。

それを理解しているファンであれば誰でもFワードを使うことで源さんが叩かれるんじゃないか、本来の源さんの良さが薄れてしまうのではないかと思うのは当然であります。

なので今までの星野源のイメージを守りたい、って言う気持ちもわかります。

しかしファンは源さんを理解し、理解できない部分があってもいいんじゃないかなと思います。

源さんには源さんの表現したい世界があります。それは常識外れになってしまうこともある。なぜならアーティストの表現したい世界は少し常識にかけ離れている時があるから。我々の価値観と源さんの表現したい世界は違う、ただそれだけだと思います。

現に私は源さんは好きですが、源さんの楽曲の中でも好みや自分のテイストではない曲もあります。

ファンはそのアーティストの全てを好きになる必要はあるのでしょうか。

理解できないことは「理解できないけどどうなっているのか知りたいな」

くらいでいいんじゃないかなと思います。

ファンも信者化するのではなく好きなかかでも選択するということを忘れてはいけない気がします。

全部好きになりたい、ファン全員が納得したものを作る

それをメインにアーティストが活動をし始めたら

表現者というよりもファンに忖度をしてしまう人に成り下がってしまう気がするんです。

ファンであるのであれば

「ありえない」

「ファンのことも考えて欲しい」

ではなく、

「源さんまたまた変なの作ったなwwwまじでこの人の頭の中どうなっているんだよwww」

くらいで良いと思うんです。

それくらいじゃないと源さんも挑戦できなくなってしまう気がして。

本来表現したことをファンのせいで表現できないと思ったら私は少しどころかとても悲しくなります。


アーティストが本来表現したいことを表現できるような、

そして信者化するのではなくファンも選択肢があるということを理解するような、

そんなアーティストとファンの関係が良いなと感じました。

星野源さんがこれからどんなものを表現するのか、楽しみにしながら生きていきたいと思います。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

かみじえりこ



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