「努力コミュニケーションバッジ(仮)」とかどうでしょう。
やや凸凹の特性のある息子(小3)を育てていて、最近よく考えることがある。
息子の場合は、診断は付いていないが、発達障がいに準ずるタイプだと思われる。知能の割に出来ることに偏りがあったり、些細な事をキャッチして辛くなったり。本人はすごく頑張っていたり、我慢していたり、でも誤解されてしまったり。
そして本当に困っていても、なかなか周りにはそれが伝わりにくいので、負のループに陥る可能性もある。
でも逆に、ある分野ではものすごく得意な物があるし、決まったことはきっちりやるし、集中したらずっと続けることもできる。
今までは、アドバイザーや療育専門の方々に支えられ、私達家族が理解し、学校にも伝えて連携を取ってもらう等して、なんとかやってこられたところもある。
でも、息子はこれからどんどん広い世界に入っていくし、いずれは社会に出ていく。親の目はもちろん届かない。
そうなった時、息子が自分の得意・不得意を認知し、必要に応じてそれを周りに伝えることが出来たならきっといいんだろうなあとぼんやり思う。でも、それは、はっきり言って、かなりハードルが高いと思われる。
よく、「特性があっても、工夫次第で状況は変わる。視力が低い人が眼鏡をかけるように」等と言われる。
そうなのだ。ちょっとした工夫で、出来ることもたくさんあるし、理解も得られたりする。コミュニケーションに関することは特に。
ただ、眼鏡とは違って、その必要性が周りから分かりづらい。
だから、それが何らかの形で伝えられる方法はないのかなあと考えた時、バッジとかどうだろう、と思い付いた。
例えば、妊婦さんが着ける「マタニティマーク」や、高齢者ドライバーが貼る「四つ葉マーク」のように。
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そう思うのには、実はもう1つ理由がある。
私は、以前勤めていた職場で、辞めていった(辞めるように仕向けられた)何人かの後輩達に、申し訳なかったなという思いがあるのだ。
人とたくさんコミュニケーションを取りながら働く職場だったので、元々、たくさんのトラブルが発生する。私はどちらかというとコミュニケーションは得意な方だったけれど、それでもすごく気を遣うし、ストレスフルな環境だった。相手がお年寄りや心に余裕がない方だった場合、特にそのトラブルは多く、周りも巻き込まれていく。
そんな中、スタッフに、物を並べないと気が済まなかったり、真面目に発言した内容がちょっとおかしかったりする後輩が数人いた。きっと彼らは何らかの特性があり、コミュニケーションが明らかに苦手だったんだと思う。
そして、トラブルが発生した時、周りのスタッフからこういう言葉をよく聞いた。
心無い言葉たち。今思い出すと、とても胸が痛い。
空気が読めて、コミュニケーションがそこそこ取れて、自分は使える人間だと思うから、そういう言葉が出る。
当時の私は、全く同じ発言はしなかったけれど、笑い話にしたりもしたし、「ここの職場は難しいかもね」と言う意見に賛同したし、特別何か配慮してあげることはなかったので、やっていたことは先の発言をしたスタッフと何も変わらないと思う。
でも、今なら分かる。きっと、そのコミュニケーションが苦手な後輩達は、悪気なんて全くなくて、真面目で優しい方々だったんだろうと。もしかしたら、もっと実力を発揮出来た場面があったかもしれないよね、と。理解のない私が取ってきた行動は、その方々を無意識に傷付けていたと思うのだ。
もし自分が逆の立場だったらどうだろう。そんなつもりはないのになんだか上手くいかない、一生懸命頑張っているのに評価されない。当然、やる気を失うと思う。
だったら、自分に合った職場に移ればいい、お互いのために。それも手だとは思う。だけど、誰とも関わらない仕事なんてほぼないし、私の職場でも、みんなで考えれば、出来ることはあったはずだと思うのだ。
もちろん、コミュニケーション能力が高く、円滑な人間関係が築けるにこしたことはないのだけれど、そんなことを言っていたら、これから先、業種によっては、働き手が足りなくなってしまうと思う。
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バッジの話に戻る。
そういったバッジはないのかなあとネットで調べていたら、海外ではこんなものがあるらしい(色々お借りします)。
なるほど。心のバッテリーの充電度を伝える訳ね。これはこれで、自己分析もできるし、誰でも使えてよさそう。体調の指標とかにも良さそうだ。
他にはこんなものも。
これはちょっと違うかなあ。そういう方もいるかもしれないけど、息子のようなタイプは「話しかけないでほしい」わけではないからなあ。
伝えたいのは、「コミュニケーションはちょっと苦手なんですけど、一生懸命考えていますので、言葉が足りなかったり、不思議な言動があっても少しだけ配慮していただけると助かります」的な内容なのだ。仮に名付けて、「努力コミュニケーションバッジ」。「お手柔らかにバッジ」とかでもいいかもしれない。
マタニティバッジも着けることで逆に嫌がらせを受けることもあると聞く。でもそれも間違っていることだよね、という意見が大多数なはずだ。
きっと、努力コミュニケーションバッジ(仮)が出来ても、最初は偏見だったり、それを言い訳にするなという人がいたり、色々たくさんの問題が出てくるだろうとは思う。着けるのにも勇気がいるし、そもそも、自己理解した上で周りに伝えたい、というパターンなので、最初はかなり難しいかもしれない。
でも、それによって、色んな方がいるんだねということを知るきっかけとなり、理解が少しずつ広がる可能性はある。「あ、配慮が必要な方なのか」と一目で分かれば、その人が考える「当たり前の対応」のハードルが少し下がるかもしれない。そうすれば、お互いに誤解も少なく、もっと内面的なものを理解しようと思う人も増えるかもしれない。トラブルが減らせるかもしれない。
それに、バッジを着けた人同士が出会ったら、「あれ、あなたも?私もなんだよー」と友達になるきっかけになるかもしれない。ちょうど、オタク同士がグッズで認知し合うように(経験あり)。
そうやって、努力コミュニケーションバッジ(仮)を着けることが当たり前になって、その人らしく社会生活を続けられる世の中にならないかなあ、とちょっと本気で考えている。
私は息子のおかげで、価値観がまるで変わった。過去の過ちへの反省と、これからの社会への願望も込めて、こういったことを、せめて考え続けていきたいと思う。
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最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今の子ども達の方が多様性には柔軟な考えを持っていたりしますよね。変わらなきゃいけないのは、私達大人なのかもしれませんね。
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