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レトロな古本屋で出会った、1冊の詩集のこと

📖立方体の空/福永祥子

上京してきた翌朝に、関西にいたときから気になっていた古本屋さん「水中書店」を訪れた。木の箱に並べられた本達はすべてきれいな状態で、店主さんは丁寧に本に向き合われている方なんだろうなと嬉しくなった。海外の文学作品や文芸作品、詩歌が多く、モダンな店内を歩くだけで頭の中がとろける。Googleマップの本屋さんリストには「詩歌が多め。言葉の奥深さを堪能できる素晴らしいジャンル」とメモしてあった。

本棚を1周半回ったところ、美しい青と和紙のような表紙に心惹かれた。詩集を手に取ることは少なく、自分でも意外だった。

水中書店で空の詩集を買うのは、なんだか面白い。1週間かけてベットの上で、1人声に出しながら読んだ。音が弾むように自分の周りを泳いでいく。ことばが集まったり散らばったり、今までに出会ったことのない不思議な余韻が残った。それでいて、どこか自分の境遇と重ねて感情移入する部分も多かったと思う。

欲しいものは手に入れたい
欲しくないものは くれてやる
私はきわめて単純な性質だから
あれもこれもとは 欲張れない
そう決め込んでしまったのが
良かったのか悪かったのか
これしきの事ぐらい まあいいか

欲張らないのではなく欲張れない。自分を決め込んでしまうのが良いことなのか悪いことなのか分からないけれど、分からないままでも別に支障はない。あれもこれもと手を伸ばすときはそれでもいいし、貰っておくのもいい。要らないものをいらない、くれてやるよと手放すことも大事。

走る風が光となって
光の粒子が 風になって
揺れているものたちの
瞳を和らげる
すぐそこにある
が 手を伸ばせば
たちまち 崩れてしまうから
要るものは
入れないことにする

前半の繊細さと、後半の諦念のバランスがいいなと思う。
遠くから見ているものは近くで手に取るとすぐに淡く崩れてしまう。
最初から手に入れようとしないことが、楽だったりもする。

言葉に距離を持ちたいと
いつも 願う
たとえば私が
地面を歩く一匹の蟻ならば
ポプラの木の先端に
視線を泳がそう
たとえば私が
宙飛ぶ一羽のヒバリならば
地の底を這うモグラに
秘密の声を届けよう

移行するすべてのものを
なぎ倒し
ぶっ壊す力を蓄えて
深い思慮に目覚めるとき
私の降り立つ場所は
そこではない

水面に波紋を描いて
沈む小石は
自身の重さを認知する
浮上をかたくなに拒みながら

「言葉に距離を持ちたい」

なんと的確で不確かな表現だろうか。
私は自分のことを考えた時、「こうなりない」はあまり出てこなくて、「こうありたい」「こうしたい」といった、現在と地続きの欲求の方が出しやすいと分析している。

「移行するすべてのものを なぎ倒し ぶっ壊す力を蓄えて」

ただ和やかに優しいだけじゃなくて、ときには振り切ったように何もかもを気にせず、ぶち壊すことができる女の子は最強だと思う。

一杯の水を飲み干す
乾いた喉を潤すためにではなく
空っぽにしたグラスに
透明な光を注ぎ込むために

不思議と情景が浮かんでくる。
少し暗い木で囲まれた室内に、差し込んでくる外の澄んだ光。水を飲むために飲んだんじゃない。その場に残ったところに、なんとかして綺麗なものを取り込みたかった。



詩や小説について、どこがよかったとか、何が響いたとか、本当はもっと言葉にしたい。けれども同時に、言葉にできない感覚というのも存在していると私は思う。
一つのフレーズを見たから聞いたから、ではなく、まとまりとして文脈として捉えられるものもたくさんある。どこで読んだのか、どんな状況で読んだのか、それによってもまた1冊の本の印象も変わる。
すべてを留めておくことはできないけれど、好きなものは好きだと言い、大事なものを大事にしながら生活していきたい。



記事を読んでいただきありがとうございます。 みなさまよい一日を。