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正しい恋の終わり方 3

3.


あれはそう、二年生になったばかりの、五月か六月のことだった。
政治学部の同じ授業を受けていた私と裕也は一緒に大学を出ようとしていた。

『うわ、かわいい』

そう言ったのは、校門の前にパステルグリーンに白いラインのミニクーパーが停まっていたからだ。

『こんなとこ停めたら迷惑だろ』
『大学の人のだよね。すごい、珍しい色』

人の車の前で勝手なことを話していると、男子学生を一人つれた女性が、それぞれ段ボールを抱えて歩いてきた。
あの人は学部で何度か見かけたことがある。教授にしては若すぎるけれど、どう見ても同年代の学生ではない落ち着きがあって、たぶんTAか講師とかだろう。彼女は車の脇に立つ私たちを見て、違う、裕也を見て、少しだけ驚いたように言った。

『あれ、井手くん』
『……どうも』

裕也は、どことなく不機嫌な様子で、ほんのちょっとだけ頭を下げた。いつもの馴れ馴れしさとふてぶてしさはどこに行ったのかと思うくらい不細工な「どうも」だった。

『なに?知り合い?』
『香苗さん……牧野先生っていう…国際環境が専門で、ちょっと、専攻とかゼミの相談とかしてたんだよ』

小声で訊くと、裕也は歯切れ悪くぼそぼそと説明した。
黒いショートヘアを無造作に一つに束ね、ボーダーのニットにジーパン姿の牧野先生はすごく若く見えた。たぶん本当は、私が思うより年上なんじゃないだろか。彼女は荷物を抱えなおす拍子にポケットから車のキーを引っ張り出し、段ボールを足で支えながらそれを差し出した。

『悪いんだけどこれ車のカギ、手放せないからドア開けてくれる?』

私の鈍い脳が牧野先生の言葉を理解するより早く裕也が鍵を受け取って、ミニクーパーのドアを開けた。

『ありがと』

後部座席に段ボールを押し込みながら言う。覗き込むと中はかなり狭い。連れてきた学生の段ボールも一緒に積むと、牧野先生はどこからか飴玉を取り出して「お駄賃」と言って学生に渡す。ありがとうございますとぼやぼやした声で言って、どことなくうだつの上がらない男子学生は去っていった。

『君たちにもあげる。はい』

牧野先生は返事も聞かずに、私たちに飴玉をぽんぽんと押しつけた。

『現地研究の資料とか、持ってくるものも持って帰るものも多くてさ、本当はだめなんだけど車で来ちゃった』

近くで見ると牧野先生はほとんど化粧気がないけれど、目がぱっちりしていて肌もきれいで、それが似合っていた。いかにも海外をぽんぽん飛びまわりそうなアクティブな女性と言う感じ。

『君は、井手くんの友達?』
『あ、そうです。学部が一緒で』
『じゃあ、もしちょこっとでも地球環境とか途上国に興味があったら私の授業で会うかもね』

にこっと笑うとえくぼができて、かわいい。うん、たしかに彼女は牧野先生ではなく香苗さんと呼ぶべきだ。

『車、かわいいですね。この色のミニクーパー初めて見た』
『そうなの。目立つから、密会には向いてない』

そう言っていたずらっぽく笑って、香苗さんは車に乗り込んだ。窓枠に手をかけてドアを閉める左手の薬指に、鈍い光沢の指輪が光った。

『じゃあ、また。井手くんも』

パステルグリーンは黄色信号に滑り込んで、あっという間に見えなくなった。手を開いて押し付けられた飴を見る。ゆずはちみつのど飴。

『いいなー、ミニクーパー。あたしも大人になったら買う』
『やめとけ。狭いし運転しにくいし、しかもめっちゃ燃費悪い』
『なんで知ってんの』
『いとこが持ってる。俺だったら絶対乗らない』

赤になった交差点を眉をしかめて見つめながら、裕也は確かにそう言った。
なぜそのことを思い出しているかというと、まさに今、新宿駅JR東南口に向かって国道二〇号線を歩く私のすぐ脇を、パステルグリーンのミニクーパーがすべり落ちていったからだ。
中がはっきり見えたわけではない。もちろんナンバープレートを覚えていたわけでもない。でも私は確信した。あれは香苗さんの車だ。私は思わず立ち止まってその行く先を見送る。
ミニクーパーはバルト9を通り過ぎ、世界堂の看板の下で停止し、そこに立っていた男性が乗り込んだ。かなり距離はあったのに、なぜかその時ははっきり見えた。それは裕也だった。

(どうして?)

あの二人はもともと顔見知りだったし、資料とか教材を一緒に買いに来たのかもしれない。

(日曜日に二人で?)

ただ一緒にいただけで仲を勘ぐるなんて考えすぎだ。

(裕也は二年になったころからぱったりと女遊びをしなくなった)

だって香苗さんは結婚している。

(それが何の証明になる?)

ミニクーパーは鮮やかなグリーンだけをまぶたに残して、あっという間に私の視界から消える。
珍しい色。目立つから密会には向いてない。彼女はたしかにそう言った。あれは、『だから気をつけないとね』ということだったの?
だけど、だけどそんなことよりも。
もうパステルグリーンは影も形もないバルトナインの入り口を見つめ、呆然とつぶやく。

「……ミニクーパーには乗らないんじゃなかったのかよ」

しばらくそこに立ち尽くしたあと、私は携帯を取り出し、裕也に一つメールを打った。

『ねー、明日の語学の宿題ってどこだっけ?あとこないだ言ってた映画、今バルト9で観たけど全然面白くなかった。』

百回くらい書き直し読み直し、注意深く送信ボタンを押した。裕也はなんて返す?いつもみたいに、『まだやってねーのかよ』と軽くあしらってほしい。
だけどその日、筆まめな裕也からの返信は日付をまたいでも返ってこなかった。

翌日イタリア語の授業で一日ぶりに――裕也からしたら先週の授業ぶりに、私たちは顔を合わせた。
遅れてやってきた裕也は空いていた前の方の席に座る、その姿を後ろから観察する。いつもよりだるそうだ。いや、裕也はいつもこんな感じ? 思い出せない。私の目にはもう穿ったフィルターがかかってしまっている。
先生が裕也の名前を確認して、出席を付け直す。授業が始まっても裕也はノースフェイスのマウンテンパーカーを脱がないまま、寝ているかのように頭をうなだれていた。いつも着ているライトグリーンとグレーのツートンカラーを眺めながら、私は今日、まずなんて声をかけるべきか考える。浮気(いや不倫? 間男?)したかもしれない友人にかける第一声にふさわしい言葉? そんなレパートリー持ち合わせてるわけない。

授業が終わると、クラスメイトはだらだらと教室を出ていく。この教室は次の時間は使われていないので、今までにも、次の講義が休講だとかサボるとか言う時に、残ってだらだら話をすることもあった。
徐々に人が減っていく教室内で、立ち上がりもせずに携帯をいじる裕也に声をかける。

「おい井手ぇ」

裕也は私を見ると、あ、という顔をした。

「やべ、返信してない」
「やべじゃねーよ。携帯見なかったの?」

言いながら、裕也に歩み寄り、一つ前の席に後ろ向きに座る。

「今見た。結局当てられてなかったからいいじゃん」
「別の子に聞いてちゃんとやってきましたーまじめだからー」
「まじめなら自分で範囲知っとけ」

いつもみたいな軽いやりとり。だけど、裕也の様子は本当にいつも通り? 私も、いつも通りに見えている?

「……つーか、咲生、昨日新宿いたの」

携帯に再び目を落として、ぼそりと裕也は訊いた。
何気ないように見せて、裕也の声音には勘繰りがかすかに感じられた。
それを聞いた瞬間、内臓がまるごと全部石になったような気がした。

――探りを入れられている。裕也は昨日のことを、私に知られたくないと思っている。

「……そう、失恋祝いにパーッと散財しようと思って、買い物」

聞くべきか、知らないふりをするべきか。平静を装いながら、考えるほど心臓がうるさくなっていく。
聞いてどうなるんだろう。私は裕也と付き合っているわけじゃないし、誰と何をしようが関係ない。そして裕也は、私に隠したがっている。明らかに。
裕也はぱっと顔を上げて聞いた

「買い物? 一人で?」
「うん、そうだけど」
「一人で映画観たの? おまえ」
「え?」
「バルト9で映画観たって自分で言っただろ、お前」

言い訳をしようと思えば、たぶんいくらでもできた。嘘を重ねれば最初の嘘は簡単に隠せる。その後無数の小さな嘘をつき続ける気があれば。だけどその時唐突に、何かをごまかしたり、見ないふりをすることが嫌になってしまった。何より、そんな嘘をついてまで自分が何を守りたいのか分からなかった。
だから言った。

「ごめん、嘘」
「え?」
「映画は観てない。バルト9にも行ってない」
「え? なんで、おまえ」
「でも違うものを見たよ」

あっけにとられたていた裕也の目が、徐々に私の言葉を理解しするように透き通っていく。悲しい気持ちでそれを見つめながら、私は言った。

「裕也、ミニクーパーには乗らないんじゃなかったの?」

教室にはいつの間にか他の誰もいなくなっていた。廊下からは靴音や笑い声が絶え間なく聞こえるのに、壁一枚が決定的に空間を断絶して、全然別の世界にいるみたい。
裕也はしばらくうつむいていて、それから画面の消えた携帯をポケットに突っ込んだ。ナイロンのこすれる音がする。

「……最悪だ。まさか咲生に見られるとは」

裕也は両手をポケットに突っこんで、両足を投げ出してずるずると椅子からずり落ちていく。首の下にきた背もたれに頭を預けて天井を見上げた。

「本当に『そう』なの?」
「そうって? お前が何を想像してるか知らないけど、たぶん『そう』だよ」
「いつから」
「そうねえ、知り合ったのは一年くらい前で、『そう』なったのは二年に上がる直前かな」

天井を見上げて私と目を合わせないまま、裕也は投げやりに言った。

「あたし、今期から香苗さんの授業取ってる」
「うん、前聞いた」
「香苗さんって結婚してる、よね」
「してるよ。相手高校の教員だってさ」
「不倫じゃねーか」

そう言ったら、ふ、と口元をゆるめて裕也は笑った。

「そうそう、不倫。江國香織であったよな。若い男が年上の既婚の女が不倫する話。読んでないけど」

東京タワー、ととっさに思った。原作と映画両方観た友達が、結末が違うと怒ってた。
だけど、あたしは恋愛映画なんて大嫌いだし、フィクションの結末なんかどうだっていい。

「……あたしさ、今まで裕也が女の子とっかえひっかえしてるの、ひでえなこいつと思って見てた。だけど、あたしはその女の子たちじゃなくて裕也の友達だから、究極的に言って、裕也じゃなくてその子たちが泣く分にはどうだっていいと思う。
だから裕也が二股かけようが何しようが好きにすればいい。だけど、だったらさ」

香苗さんの溌剌とした笑顔、えくぼ、左手の薬指。
一馬から逃げた私に、裕也は言った。

『報われないとか振り向いてくれないとか、わかってても、それでも近くにいられる方が幸せってこともあるんだよ』

「こないだあたしに言ったのは、自分のことだったの?」

裕也はゆるゆると首を動かして私を見た。その目はやっぱり透き通っていて、それがとても悲しかった。
何かを諦めたような穏やかさで、裕也は言った。

「……俺の幸せは俺が決めるよ」

のどの奥に何かがからみつく。裕也の目が、私の記憶のなにかとデジャヴする。
教えて、と心の中で叫んだ。あたしは、本当のことが知りたいよ。

「……ねえそれって、本当に本物の、幸せなの?」

裕也の表情がゆがんだ。

「俺は、あの人が好きだ。それは俺の感情だ。だからこれ以上、踏み込んでくんな。頼むから」

乱暴に椅子を引いて立ち上がり、裕也は教室を出ていく。
説明のつかない感情の高ぶりに堪えられなくて、私はうつむいた。どうしようもなく苦しかった。あの日から変わらない、ずっと私の中にある痛み。

きっと、苦しいなら苦しいと言えばよかったのだ。それだけのことができなくて、今もこんなにも痛い。
記憶の中で、すでに薄れはじめたその人に問いかける。

君も苦しかった? あたしは君に、少しでも傷をつけることができた?

今はもうなにもかも遠すぎて、本当のことは何一つわからない。

〈続〉

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