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考えすぎて迷宮入り

 私は私が分からなくなった。
 最近めっきりと記憶力が無くなってしまったようだ・・・。
 日常を共に過ごしてきた同僚の名前すら出てこなくなり、呼び止めたくても名前が出てこない。去り行く後ろ姿に、『ちょっと君』とか、『ねえ貴方』とは現実世界では呼べないものだ。
 だから、あーあーあー・・・。とか言っているうちにテンキーを押して階段への通路への扉へと消え去っていく。
 喉の奥に引っ掛かって、どうしても対象者の名前が出てこない。
 私は同じ空間にいた女性職員に尋ねた。
 
「あの人の名前って、何だったっけ・・・?」
 
 同僚は、『え・・・?』と漏らし、驚きを隠した様子で答えを教えてくれた。
 教えてもらって、『ああそうだった』と思えた。私は、難解な問題が解けた時のようなアハ体験で脳が震えた。
 
 教えてもらって思い出せたならば、ただの物忘れだ。物忘れという表現は失礼なので、人忘れ。決して私は病気ではない。
 何時も共にしていた長年一緒にいた人の名前を忘れてしまった私は、ただ疲れていただけなのだろう・・・。
 そんな出来事が、最近頻繁に起きていた。

 
 
 私は有給届けを記入していた。
 一日8時間働く私が、最近6日間を休まねばならない状況になった。6日間の休暇は家計に響くので、是非とも有給を使おうとしたのだ。
 
 
【次の問題に答えなさい】
 襟瀬さんは、介護施設で一日8時間働いています。その襟瀬さんが、思いもよらず6日間休まねばならない状況となりました。彼女はシングルマザーで、一日働くたびに苦行の一日と言いながら疲れています。風呂に入り、ベッドに横たわる時、『あ~、今から寝れる。生きてて良かった~!!』と呟くのです。諸事情で6日も休まねばならなかった襟瀬さんは、何時間の有給を申請しなければならないのでしょう。

 
 私は有給届けの紙を見ながら、そんな小学二年生の文章問題を妄想した。
 そんなのは、八かける六だ。
 クソが付くほど簡単すぎて笑える問題だ。
 ヘソが茶を沸かしそうな問題。
 朝飯前どころか、去年の朝飯前だ。
 そんな問題を私に出すなんて、どんだけ私をバカにしているのかと憤慨した。
 ふざけるなと思いながらも、私はフリーズしてしまった。
 
『はちろくって、なんだったっけ・・・?』
 
 大丈夫だ。はちろくを忘れたなら、ろくはで答えは導き出せるはず!!
 
 しじゅう・・・しじゅう・・・
 
 ・・・そろそろ私はヤバいと思った。
 掛け算を忘れてしまったようだ。
 
 疲れてしまったのか私は!?
 そうか。私、気づいていないけれど、思っている以上に疲れているのか・・・!?
 
 そう思いながら、疑心暗鬼に『48』と書いてみた。申請書に48時間の有給を取りますと。
 
 そのボールペンで書かれた文字をじっと見ていると、本当にハチロクはシジュウハチなのかと自分が信じられなくなってきた。
 
 どうしよう・・・。私、全然自信ない。きっとこの答えは間違っているような気がする・・・!!
 
 
 私は小学2年生の頃、九九を覚えるのに苦労はしなかった。
 これはS級の魔女の呪文だと思って覚えれば、自然と脳細胞に叩き込まれた。九九を覚えるのに苦労をした覚えがない。私は1の段から九の段まで難なく覚えられ、S級の魔女の仲間入りが出来たのだと思っていた。それほどに九九なんて一昨年の朝飯前のようなものだったのだ。
 
 それなのに今の私は、ハチロクやロクハが本当のところ何なのか、自分に納得の行く答えが見つからなくてブレている。
 
『ハチロクってなんでしたか? もしくはロクハって何でしたか? 』
 なんて、死んでも同僚に聞けやしない!!
 
 助けて神様 、天使様!! と願った。
 この腐敗しかけの脳にヒラメキをお与え下さい!! と願った。
 この答えを誰にも気付かれずに片づけるにはどうすれば良いのか、脳がオーバーヒートしながら考えた。
 とても動揺していて長い時間に思えたが、3分も経っていない時間だったと思う。
 
 私はこっそりと荷物置き場へといき、スマホを取り出し、口元をそれのギリギリへと近づけ、Google先生の音声検索をした。
 
「ハチかけるロクは・・・?」
 
 と、こっそりと小さな声で・・・。
 
 Google先生は、『お前アホか!? 絶対アホだろう?』といわんばかりに、
 
『ハチ カケル ロク ハ、ヨンジュウハチ デス』
 
 と教えてくれた。
 
 よっしゃー!! 
 48は正解だったのだ!!
 私は喜んだ。祭のように煌びやかに喜んでから、休日の午後の紅茶を飲むようにホッとした。
 私の九九の記憶は確かなものだったのだ。
 私は少しもボケてなどいなかった。
 紛れもなくハチロク、もしくはロクハは、シジュウハチだったのだ!!
 
 考えすぎると、どうも自分の出す答えが嘘っぽく思える。
 私は自分を疑ってしまったのだ。
 
 私の出す答えが間違っていようが無かろうが、それを肯定できるのは私でしかないのに、私の味方は私でしかないのに、私は私が出した答えのシジュウハチと、自分という存在を疑ったのだ。
 
 ごめんね私と思った。
 アホって思ってゴメンねと思った。
 貴方は正しかったよ。間違っていなかったよと、私は私を褒めた。
 
 私は自信を持って、48時間と記入された有給届けに、襟瀬の印を押した。
 
 
 

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