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新しいアイテム

 職場での昼休み、行きつけの休憩場所へと来てから、しまった~と思った。
 私としたことが、いつも持ち歩く殺虫剤を忘れたと気づいた。
 屋外北側にある木製のベンチにて昼休みを過ごす私は、いつもは鞄から殺虫剤を取り出し、万が一害虫と出くわした時に備えて左袖の台に待機させておく。蜂なのかハエなのか謎の、黒い虫がちょっかいを出してくるが、それらは害ではないので殺虫剤を振りまくことは無い。手で振り払うだけだ。
 ここの所、殺虫剤を振りまく機会はなかったし、今日も必要ではないだろうと諦めた。
 
 もうすっかり本場物の秋といった雰囲気で、過ごしやすい気候となってきた。裏山の木々は所々色付いていて、眺めていると心が落ち着く。間接照明で言ったら、温もりのある電球色のイメージだ。私の疲れた身体と心を癒してくれる。
 
 ただ心配なのは、秋は蚊が子孫を残すため、命をかけて人の血を吸うハンターとなる事だ。秋のどぎつい蚊に刺されると物凄く痒く、後々まで引きずるのは、長い人生の中で学んだ事だ。酷い時は色素沈着してシミ化するらしい。そんな不幸話、この身に起きたくないと日々警戒していた。
 しかし、ふと思った。
 最近、蚊に刺されたことあった・・・? と。
 
 
 少し遅れて、同僚がやってきた。
 
「襟瀬さーん! おつかれっすー! 元気ですかー?」
 
 彼女はいつも、LED電球のような明るさで登場する。私はそれとは対照的に、
 
「昨日も会ってるのに、なんで?」
 
 初対面の人だったら、無愛想で怖い人だと恐れるだろう返しをした。私は心を許した人間には素の自分を晒す。ムダな愛想笑いは無しの省エネモードだ。特に休憩中は切れかけの豆電球の明かりしか発しない。それを彼女も知っているから気が楽だ。
 
「だって昨日と今日は違うかもしれないじゃないですかー」
 
 ニコニコ笑って、私が座る木製ベンチの右側に腰かけた。なぜ、こんなにもこの子は元気なんだろう。性格か? もはや才能だと言える。彼女にも悩みは沢山あるはずだ。私は彼女が産休に入る前から、時を越えて再会した今も、彼女からの悩みを聞いている。決して平和ボケの生活を送っている気楽な人間ではないはずなのに、彼女から放たれる光はいつも眩しい。
 
 ふと、彼女の腕を見ると、蚊が1匹止まっていた。瞬時に私の蚊センサーが働いた。私は手加減もせずに、彼女の美味しそうな腕をバシ!と張り叩いた。良き音と共に、押し花の栞のようになった蚊が彼女の腕に貼り付いた。幸い、血はまだ吸われていないようだった。

「痛い! 力加減!」
 彼女は笑いながら言う。
 
「力加減なんてしたら取り逃がしてしまうよ! これは真剣勝負なんだから!」
 
 私は強く主張した。
 押し花の栞のようになった蚊を彼女の腕から引き剥がし、冷めた目で地に落とす。もしもコイツが私に刺そうものなら、押し花どころか、煙が出るほどに両手を擦り合わせて木っ端微塵の塵にするところだった。
 話の途中、また彼女の腕に蚊が止まっているのを発見した。
 
 なぜ・・・? ここはそんなにも蚊の多い所だったかしら・・・?
 
 私は疑問に思って、過去を振り返ってみた。
 
 去年の今頃、産休中の彼女はここにはいなかった。私は大抵一人でこのベンチに座り、静かな昼休みを過ごしていた。その頃は私も沢山の蚊に刺されたものだった。ワンパンでは心が許せず、ツーパンして煙が出るほどに掌を擦り合わせてイライラを吹き飛ばしたものだった。極めつけに、殺虫剤を辺り一面に振り撒いておく。それが基本だったはず。
 
 今年、私が蚊に刺されなくなったのは、隣に一回り以上年齢が下の若い彼女が座っているからだと気付かされた。ここにいる蚊は全部、彼女の方へと流れていく寸法だ。
 確かに、蚊の気持ちになればごく自然の選択だろう。蚊は知っているのだ。この二人の人間、どちらが栄養豊富で美味いのかを。
 
 謎が解けて不愉快になった。
 
 私が引き寄せるのは、蜂なのかハエなのか、良く分からない飛ぶ虫。害はないが鬱陶しく顔の周りを飛ぶ黒い虫だ。
 私は生きた屍じゃないとヤツらを掌で振り払う。
 私がハエ担当で、彼女が蚊担当みたいだ。
 
「なんでその虫、襟瀬さんばっかりに来るんですかね?」
 
 確かにそうだ。
 なぜいつも私ばかりに絡んでくる?
 
「・・・もしかして私、臭いのかな? ・・・怒らないから正直に言ってほしい。・・・私は臭い?」
 
 省エネモードで、豆電球のような光しか放っていない私は、その僅かな光さえ点滅しそうな弱気になった。LEDの明るい光を放つ彼女は笑う。
 
「全然。お花の香りがするから寄ってくるんですよ」
 
 そんな癒しの言葉を発して私を慰めてくれた。それから彼女は、自分の美味しそうな太腿に止まった蚊を発見し、クソ! と言いながら叩いた。失敗した。私は、ふわふわと宙を舞うその蚊を逃がすものかとベンチから立ち上がり、両手でワンパンした。仕留めた! スカッとする!! 私は、掌の中にある栞状態の蚊を見つめた。
 布地の上からでも血を吸おうとする秋の蚊の執念深さに、苛立ちを通り越して憐れにさえ思えてくる。その憐れな蚊は、彼女の隣に座る私には一度たりとも刺してこようとはしないのだ。ツンデレも度を越すと可愛さの欠けらも無い。
 私の半袖の袖からは、生身の皮膚が露になっているというのに・・・。
 これでも私には、赤い血が流れているのだよ・・・。

 健康診断では毎年Aランク。吸わず嫌いは良くないから、一度刺してみて味見とかすれば良いのに・・・。冒険はしたくないって?  明らかに美味そうな対象者を避けて不味そうな個体には行かない・・・? 
 意気地無し!!
 
 まあいい。彼女が私の右隣に座ってくれるのなら、私はこの先蚊に刺される心配は無いのだから、願ったり叶ったりだ。
 別に私は僻んでいるわけじゃない。
 冒険しない蚊を残念に思うだけだ。私の血はAランクだぞと教えてやりたい。
 
 
 そんなことを考えながらの彼女との会話は、ほとんど集中できなかった。適当に相槌を打って、あたかも聞いているような反応をする結果となった。とても時間の無駄をした気がする。
 
 明日からは、蚊取り線香を持ってこようと学習した。
 
 
 
 
 
 

 

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