カンボジアの悲しい歴史

カンボジア首都プノンペンにある「トゥールスレン」という場所へ行ってきました。当時S21と呼ばれた収容所です。
カンボジアでは、ポルポトという独裁者が政権を握っていた1975-79年の間に人口の4分の1(推定150-300万人)もの人々が処刑・飢餓・過労によって亡くなりました。当時は爆弾は貴重な武器であったため、虐殺は農機具で殺されていました。
政府機関、裁判所、病院、学校、寺院などは封鎖され、知識人はほとんど殺されました。これがのちのカンボジアの発展や生き残る人々の心にどれだけ深い傷跡をのこしたことか…

ーなぜそのような悲劇が起こったのか?

ひとりの男「ポルポト」が描く理想的な社会をつくるために行ったことがはじまりでした。原始時代に戻れば格差のない平等な社会がつくれるという考えをもとに、格差を作り出す可能性のあるものは一人残らず消すことが国のためになると本気で考えていました。

ポルポトは、比較的裕福な家庭で生まれ、奨学金でフランスパリに留学しました。しかし、勉強があまり得意でなかったポルポトは、3回試験に落ち奨学金も打ち切られ、カンボジアへ帰国することに。
留学先で「共産主義」の考え方に出逢い、勉強そっちのけでどっぷり「共産主義」に染まっていたため帰国後は、共産主義革命運動をしておりました。
(ポルポトは、何度も挫折を味わい続けたため落ちこぼれが生まれない共産主義の思想に魅力を感じました)

1950年代、第二次世界大戦が終わったころのカンボジアは王様が国を治めており、ポルポトは帰国後王様を倒すグループに入りました。すると、王様は革命を目指すグループを弾圧しポルポトはベトナムや中国へ逃亡します。
そこで貧しい農民と出会い、貧しくとも幸せに暮らしている方々をみて、「原始時代に戻ろう。そうすればみな幸せになる」と思い始めました。
※本来の共産主義は、働いて得た資本や財産をみんなで共有する平等な社会体制のことです。しかしポルポトは、貨幣制度の廃止、私服や宗教の禁止など資産や自由までもなくそうとしました。

1960年代には、ベトナム戦争がはじまり、北はソ連、南はアメリカ
1972年には北ベトナムvs南ベトナム+アメリカの戦争真っ最中でした。
アメリカは、北から南への物資を運ぶルートをつぶそうとカンボジアやラオスのルートとなる地に空爆をしました。(第二次世界大戦時に、日本に落とした爆弾の量の3倍といわれています)
当時の政権をに握っていたシハヌークはベトナムを支援しているとして、アメリカはシハヌークを追放。アメリカはロンノル将軍を支援していましたが、1973年にベトナム戦争が終わり、アメリカは撤退。
アメリカの支援がなくなり弱まったロンノル政権を、ポルポト軍(クメールルージュ軍)はすかさず攻撃し、1975年4月1日ロンノル政権を倒しました。

空爆やロンノル政権による暴力に苦しんでいた人たちは、これでやっとで戦争のない平和な日常がやってくる…そう思い、アメリカに勝利したという喜びと共にポルポト軍(クメールルージュ軍)を迎え入れました。

ーしかし、ここからが地獄の始まりとなりました。

毛沢東の考えをもとにポルポトは、原始共産主義という思想を掲げ、
旧ロンノル軍の兵士を抹殺し、格差をもたらす可能性がある人々をすべて虐殺しました。
文明を排除してみな平等に暮らすことを理想としていたため、
都市部に住んでいた人たちを農村に移住させて農民にさせました。
文明を排除したとしても知識人がいると新たに文明が生まれかねないため、知識を持った人たちを次々と処刑しました。医者や教師、留学生や賢そうな人たち(眼鏡をかけている人や手が柔らかい人)を抹消しようとしました。

惨いことにポルポトは、字も読めず、洗脳しやすい子どもを兵隊にして、
子どもたちに処刑や残酷なことをやらせました。

何の罪もない多くの方が、S21トゥールスレン収容所に入れられ、
ひどい拷問や尋問をうけ、最後にはキリングフィールドで次々と処刑されていきました。

目をそむけたくなるほどの残虐な歴史。

人は人を人と思わなくなった瞬間に悪魔となる。
人間は狂う。

国内が混乱状態になると、あらゆる歯車が狂い始め、このような悲しい歴史を起こしかねないと思いました。

同じ過ちを起こさないためにも、目を背けずに歴史を知ること伝えることは大事ですね。

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