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タナトフォビア(死恐怖症)の人に贈る言葉

はじめに

みなさんは、『タナトフォビア(死恐怖症)』という言葉をご存じでしょうか?本文章はタナトフォビアに日々向き合っている筆者から、同じような症状に悩む人たちに向けたアドバイスです。私の体験が皆さんの不安を和らげる助けに少しでもなれば幸いです。

まずは、知らない方もいらっしゃると思うのでタナトフォビアについて簡単に説明します。
タナトフォビアはWikipediaでは以下のように説明されています。

「ひとが死に至る過程や、存在することが止まることについて考えるときに認識され、心配になるという死の感覚 (feeling of dread, apprehension or solicitude (anxiety) when one thinks of the process of dying, or ceasing to 'be')[1]。これはタナトフォビア (thanatophobia,ギリシャ神話の死の神タナトスが由来) とも呼ばれる。また、この症状は、自身の死ではなく死体や瀕死の他者を恐れる死体恐怖症(ネクロフォビア)(necrophobia) とは異なる概念である[2]

さらに、身近な人などの死を経験した直後の思考内容によって引き起こされるものもあり[3]、臨床的には精神科医によって、病的なものとされたり異常と診断されることもあるが、そこでは不安が根強く続き、日常生活に支障をきたす程度が診断の前提となる[4][5]

死恐怖症は、臓器提供など死に関連するどんな話題においても極端な怯えを引き起こすことがある[6]

Wikipedia

タナトフォビアは、簡単に言えば「自分に対する死」を強く意識してパニックなどの症状に至る病気です。私自身、小学2年生に「自分が死んだらどうなるのか」を考え始めてからタナトフォビアを発症し、高校1年生の時には症状が悪化、最終的にはメンタルクリニックに通院し睡眠導入剤を処方してもらいました。(この頃のエピソードについてはまた機会があれば書きたいと思います。)私は幸いにも親に(本心からの共感は得られていないが)理解してもらっているのでこの症状を卑下することなく日々生活していますが、正直に言って「タナトフォビアではない普通の人になりたい」と思う事ばかりです。しかし一方で世の中の無常を意識ししまった以上自分の死は常に付きまとう問題であり、向き合わないといけない(どうせ逃げられない、死ぬ前にパニックになるなら今のうちから心の整理をつけておきたい)と思っていますし、それが正しい行為だと考えています。このような私が「このような考え方に出会って救われた」という内容について紹介いたします。日々自身の死に悩んでいるあなたに届くことを祈っています。

1. 考える暇もなく忙しくする

まず紹介したいのが、日々の不安を和らげるために死について考える暇もないくらいに生活を忙しくすることです。

これについては多くの人が言っているのをよく見かけますし、私自身この対策の効果は実感しています。自分の死を逆に毎日の活動のエネルギーに昇華することはメメント・モリの精神に繋がるものであると考えていて、非常にポジティブな生き方であり目指すべき姿だと思います。

しかし一方で、この対策は「一時しのぎでしかないのでは?」と考えてしまう人もいるかもしれません。

たしかに、毎日疲れていればその日は自分の死について考えることは避けられるかもしれませんが、自身の死は最終的に向き合わないといけない問題です。もちろん、「毎日頑張っているうちにいつの間にか死んでいた」というのもタナトフォビアの人にとって理想的な生き方(死に方)かもしれませんが(笑)
しかし、私はこのような疑問を感じつつも日々を一生懸命に生きることは大事だと考えています。なぜなら、日々を一生懸命に生きることが最終的に死がやってきた時に自分の人生を肯定し、人生に満足する事を許してくれるかもしれないからです。

そうはいっても、「将来の死を考えると、とてもじゃないが今に集中することができない」といった人も多いと思います。そんな人には次のアドバイスを送ります。

2. 死は「今」にも存在している

「今」に集中する事が出来ない時に意識したいことが、私たちが想像している「死」はあくまで一つの可能性でしかないことです。

というのも、多くの人は自分の死を「老人になった時に家族に看取られながら迎える死」のようにある一つのシーンを想像しますがこんなのは想像にすぎません。何歳に死ぬかも分からないし、(ありえないですが何かが起こって)死なないかもしれない。もっと現実的なことを言えば、私たちはいつでも死を選択することもできます。それくらいに私たちの「死」は自由度を持っています。

死を『いつかやって来る私の身にとって最も重大な出来事』と考えるのではなく、常に隣り合わせな現象と考えてはいかがでしょうか。将来の死について考えてしまう時は、「(将来もそうだけど)今死ぬかもしれない」と徐々に視点を「今」に移してみると、「じゃあ今何かやろう、頑張ろう」とどこか勇気が湧いてきます。この気持ちの変化は将来のことで頭がいっぱいであった状態から徐々に現実を意識することが出来るようになることで起こります。このように、明日死んでしまうかもしれないと考えることが今日に集中することに繋がります。

しかし「死」に対する恐怖はやはり消えません。
そんなあなたには次の言葉をお送りします。

3. 死ねる幸せ

ちょっと雲行きが怪しくなってきましたが(笑)
私は本気で死ねることは幸せであると考えています。

私はこの考えに自身に対する2つの質問を通してたどり着きました。

まず1つめに、「死ねるか死ねないのはどちらがいいか」という質問です。
これに対して「死ねる方が幸せ」と考えるようになれば、私たちは「いつでも死ねるという幸せ」を噛みしめることが出来るようになります。

私はこの質問を考える時はいつも「火の鳥」を参考に考えます。この手塚治虫の有名な漫画の中では、自分一人だけ死ねない体になり絶望する主人公が描かれています。実社会においても辛いことに対して全てを投げ捨てて死ぬことが出来ることができるということは、現に私たちの心を支えていると思います。また、このように「私自身を決定づける最も大事な行為(=死)」を自身でコントロールすることが出来るという事は最大の自由なのではないでしょうか。欲を言えば死にたくないときは死にたくないですが、それ以上に死にたいときに死ねることは幸せであり、いつか訪れる自身の死も先ほど述べたように日々の活力へと変換することが出来ます。

次に、「死は(よくわからないものではあるけれど)良いものなのか悪いものなのか」という質問です。この考え方は「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という疑問に苛まれている人に特に有効です。

あなたは「死を悪いもの」と考えすぎていませんか?未知のものに対する恐怖心はありますが、そもそも「死」は私たちが想像してしまっている以上には悪いものではないのかもしれません。もし、「死」が「生」と比較して「悪い」のであれば、私たちは皆必ず死ぬのですから、私たちの人生は全てバッドエンドを迎えることになります。そんな悲しい話あっていいのか…と思いますよね?私も思います。どうせバッドエンドを迎えるのであれば生きていて意味がないと考えるのも無理はありません。折角死ぬことが出来るんだからさっさと死んだ方がいい可能性すら感じます。だからこそ私は実は「死」は「生」と比べて悪くないのではないか?と考えるようにしています。(根拠はありません。ただ私が全ての人生がバッドエンドであるという事実を認めたくないだけです。しかし死については誰も分からないのですからどちらでも考えることが可能です。)私たちは必ずハッピーエンドを迎えるのです。もしそうなのであれば「生」は束の間の「色々体験できる場」であり、嫌になったらいつでも「死」に迎えます。

このように、「私たちが死に恐怖することは、未知であることが大きな原因であり『死』そのものが悪いわけではないかもしれない。また、『生』は束の間の休息の様なものかもしれない。」という希望が見えてきました。

最後にこの考えをもとに人生をより楽しむための策を授けます。

4. 人生は所詮自己満

最後にお届けしたい言葉は「人生は所詮自己満」であるということです。
要するに、私たちはもっと気楽に生きていいのです。

タナトフォビアの人たちは真面目な傾向があるのかもしれないと思うことがあります。(私自身凄く真面目なタイプで何をするにしても「理由」や「意味」を求めてしまう傾向があります。)

なぜ、もっと気楽に生きても良いのか。
それは、先ほど述べたように「生」はいつか「死」を迎える私たちにとっての束の間の出来事だからです。

人生は究極的に主観的です。人々による社会はこれまでも、そしてこれからも続くのかもしれませんが、私の人生はそれに対して僅か短い時間しか続きません。私たちの「生」なんて巨大な社会、さらには宇宙からしたらゴミみたいなものです。何とかして生きることに「意味」を見出したい私たちからすればとても耐えられないことではあるかもしれませんが、私たちの人生に意味なんてないからこそ私たちは人生を自由に楽しむことが出来ます。

すなわち、「人生は自己満(客観的な価値なんてない)」であるからこそ「自分はどう生きたいか」という美学が生まれるのです。

他人にどう思われようとその他人もどうせ皆死にます。それでも「人を大事にできる自分」が好きなのであればそのような自分を目指すべきだと思います。もしくは「なんでも挑戦してみる自分」が好きなのであればそれを否定する要素は存在しません。(あったとしても全てのものは無常なのですから気にする必要はありません。)

自分の中に突如として現れた「生」という状態を楽しみ、存分に世界を知覚し、人生を満喫してください。どんな生き方であっても、自分が良かったらそれで良いのです。

さいごに

以上が、タナトフォビアの私がタナトフォビアのあなたに贈りたい言葉になります。

まとめると、「考える暇もなく忙しくする」が実践できることが理想だと思います。死を自身のエネルギーに変換し、人生は所詮自己満であることを考えると、日々を大事に一生懸命生きることは人生に対する満足度を向上させてくれると思います。しかし「死」は本当に恐ろしいです。そんな時はちょっとでも「今」に目が向くように思考を誘導し、「死」はもしかしたら良いものなのかもしれないと考えてみて下さい。完全に「死」の恐怖を取り除くことはやはり出来ませんが、幾ばくか気持ちが楽になるかもしれません。

けど何よりも大事なことは、「人生は所詮自己満」なのだから気楽に生きてみることだと思います。

昔私自身がタナトフォビアを強く発症していた時に見た記事に以下の様な話がありました。(少しうろ覚えですが、、)

『タナトフォビアに苦しむ時の私たちは、あたかもヱヴァンゲリヲンのシンクロ率が低下している時のように、肉体と精神の結びつきが低下しているのかもしれません。肉体と精神の結びつきが弱いから、私たちはどこか生きている心地がしなくなり不安を感じるのです。』

私はこの内容に強く同意します。考えばかりいると、心だけどこかへ行ってしまったような感覚に陥ります。そのような時は、機体の手入れをするように自分の肉体にも気を使ってあげて下さい。心と体の結びつきが強くなればもっと私たちは現実に生き、「今」に集中することが出来るようになると思います。

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