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実家近くのラーメン店「パンケ」(八千代台駅前)で舞いあがって言ってしまい後悔したこと

先日発売されたフードカルチャー誌「RiCE」で「日本遺産ラーメン」という企画の座談会記事の編集・執筆を担当した。読んでもらえるとわかると思うが、その座談会記事に込めた編集者としてのメッセージは「生活圏内の外食店を大事にしよう」だった。

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話しは遡って、本の制作中でのこと。ちょうど原稿を書き終えたときに、千葉県八千代市の実家に帰る機会があった。「生活圏内の外食店を大事にしよう」という言葉が頭(心?)のなかにこびりついて離れずにいたのだろう。ふと実家の駅の隣の駅、京成線八千代台駅にある札幌ラーメンの店「パンケ」を思い出し、途中下車して食べに向かった。22時を過ぎていただろうか。

20代のころに酔っぱらって深夜に食べにいっていたパンケは、家族というよりは友人たちとの思い出の店だ。今も2時までやっているというが、当時はたぶん明け方までやっていたと思う。わけもわからず飲んで、キャバクラに行って、これまたわけもわからずお金を払って、パンケでラーメンを食べてから、一駅隣の家まで歩いて帰る。今から25年くらい前の地方の街によくあった、20代そこそこの若者たちのありふれた夜遊びの一部だった。

パンケの創業は1976年だという。僕は、1977年生まれだから1歳年上になる。生まれたときは船橋に両親は住んでいて、1歳ころに八千代台駅が最寄り駅の東習志野に住み始めたというので、両親が八千代台駅を利用していたころにはすでにパンケはあったことになる。

しかし両親がパンケに行っていたという話は聞いたことがない。父は船橋市の消防職員だったので、飲み会は津田沼だったし、小学校教師だった母は酒を飲まないので、どちらも深夜の八千代台で飲んでラーメンなんて食べなかったのだろう。

当時は、市内随一の歓楽街で光り輝いていたパンケへの道も、今は悲しいくらいに暗く静かで寂しい。駅前の通りの店のシャッターは閉まっている。夜なので当たり前と思うかもしれないが、このシャッターはたぶん開かない閉じ方だというのは、なんとなくわかる。

京成八千代台駅は、八千代市、いや船橋駅以東の沿線地域までを含んでもあまりあるほどのカルチャーの中心地だった。京成本線の全沿線でも最大級の駅で、スカイライナーが朝夜のみ停車駅を増やして運行するモーニングライナーとイブニングライナーの数少ない停車駅で、当時それがとても誇らしかったのを覚えている。

さらに駅東口にある「ユアエルム」は、ファッション、カルチャー、フードの発信地で(八千代市の109的な)、サイゼリアは周辺でもかなり早くから入っていたと思う。屋上のイベントスペースに芸能人もたくさんきていて、夜もヒッパレとかに出ていたころの安室奈美恵氏もイベントに来たほどだ。

しかし、1996年に東西線の延伸路線でもある東葉高速鉄道が開通すると、徐々に人の流れが変わり、市内で一強だった八千代台駅の力に陰りが見え始める。

僕自身は、八千代台駅がまだ元気だった2000年代初めまで八千代市にいたが、その後は東京に出てしまい、それ以降の思い出は少ない。たまに帰って地元の友人と飲むことがあるが、八千代台で集まる機会はめっきり減った。電車のなかから哀愁漂う街の雰囲気をどこか他人事で「寂しくなってきたなぁ」と眺めていた。

すっかり自分の生活から離れてしまった八千代台駅に舞い降りたたせたのは、よほど「生活導線のなかの外食店」が頭から離れなかったのだろう。それこそ、22時の八千代台駅に一人で降り立ってパンケに行くなんて、たぶん初めてのことだ。

真っ赤な地色に「パンケ」の文字が書かれた暖簾はなんとなく記憶にあったが、中に入ってコの字のカウンターを見ると、「あれ、こんな感じだったのか」と思った。懐かしいというより「こうだったんだ」という感覚で、記憶のない幼児の頃に来た親戚の家に、25年ぶりに来たようなのに似ている気がした。

しかし、壁に掛かった「地獄ラーメン」という文字を見つけてようやく記憶が呼び起こされるた気持ちになった。そうそう、パンケの看板メニューは地獄ラーメンだった。

味噌ラーメンにトウガラシや豆板醤を加えた辛味噌ラーメンを「地獄ラーメン」というが、そういう文化は、他の地域にもあるのだろうか。地元では、佐倉市の296号沿いに「みろべー」という中華レストランがあって、そこにも確か「地獄ラーメン」というのがあって、母が好きだった記憶がある。

地獄ラーメンを注文するまえに、まずは瓶ビールと餃子を頼む。瓶ビールのおつまみで冷奴とメンマが出てきた。このメンマが驚くほどおいしい。タケノコの食感を残しながら淡い出汁の風味がある。餃子はよく焼いてあり好み。しかしながら、ここでも懐かしいという感覚はない。

ひとしきり食べたところで地獄ラーメンを注文。カウンターからラーメンの作り方を覗き見ていると、鍋で肉ともやしをいためたところに出汁を加えて野菜炒めのうま味を余すことなくスープにする(えぞ菊のような)のではなく、単純にどんぶりの味噌に出汁を加えて、あとから野菜炒めをトッピングするスタイルをとっていた。

味噌には、納豆が少し加えてあって、出汁と味噌をどんぶりのなかで溶かし込む際にミキサー使ってしっかり合わせる。ミキサーを使うのは珍しいと思い
あとで調べてみたら「パンケ」ならではのやり方だそうだ。

運ばれてきたラーメンを食べていると、客が1人入ってきた。常連客のようだ。書きそびれたが、僕が店に入ったときから奥の端の席に座ってビールを飲んでいる常連客もいた。

従業員は、「さっちゃん」というお歳を召した女性のみ。彼女と常連客は、ずっと親しげに話している。僕には見向きもしないで、「お嬢ちゃんいくつになったの?」と話しかけたり、あきらかに常連を贔屓している。

しかしそれを見ても「常連ばかりひいきして居心地悪い」とか「同じ客なのに差別するな!」とはまったく思わない。むしろそういった常連客が通い続けてくれたから店が続き、こうやって25年ぶりに気まぐれきた男を変わらず迎えてくれている。むしろ感謝しないといけない。

帰り際、ビールの酔いもあって「25年ぶりに来ました。当時はよく夜中に来てました。ありがとうございます」と「さっちゃん」に話しかけてしまった。

さっちゃん」は、優しく「私は昔は昼にいたからねぇ、今は夜一人でやっているのよ」と答えてくれた。ここ数週間で急に足を悪くしてしまって歩けなくなったと常連客と話していたのを聞いていたのもあって、「無理しないで休んでいいからできる範囲でやってほしい」と、勝手に思いを伝えてしまったが、店を出て帰りながらそれを強く後悔した。「余計なことを言ってしまった」と。

たかだか1度来た客が、知ったように「続けてほしい」なんて、なんて薄っぺらいこと言ってんだと恥ずかしくなってしまったのだ。

そもそも僕のひとことで変わることなんてないし、そんなことは、パンケの皆さん自体が何千回も自問自答しながら今まで続けることを決めてきたはずだ。

そのことを想像できずに、自分のお気持ちを一方的に伝えて、あわよくば自分の一言で「パンケが続いた」と悦に入ろうとでもいうのだろうか。

なんて想像力が欠如し思いあがった男なのだろうか。酒を飲んで気持でも大きくなったのか。お前は、酔って昔の彼女に電話する勘違い野郎か。

そんな自省の念にかられながらも、心にはノスタルジックな思いがしっかり浸り、どこかさっぱりとした気持ちになっていたのも事実である。

さぁ、僕にできることははっきりしている。また食べに行くことだ。それが店のためになるとかそういうことを意識してはいけない。ただ、毎年咲く桜を見て新鮮な気持ちで感動するように、パンケに足を運べることのときめきを、ただ楽しむだけなのだ。

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