戯言

小説が書きたい。

小説が書きたかった、ずっと。
読んでいてワクワクするような小説が書きたかった。
私が本を読んで味わうあの高揚感を人にも抱かせたかった。
読む時にこんなに楽しいのなら、書くのはもっと楽しいに違いないと信じていた。

しかし、私はまだ小説を書いたことがない。

書こうとしたことは何度もあった。
でも、忙しかったり、話の展開が思いつかなかったり、後回しにしたりしていたら一つも完成しなかった。

私は、こういう話を書きたい、と思ったことがない。
小説を書いてみたい、とだけ思っていた。ずっと。

私は、小説に夢を見ていたのだ。
小説を書く、ということに。

おそらく小説とは手段だ。
気づいたら書いているもの、書きたい話を文字に起こしたら出来上がるもの、それが小説だ。

「小説を書きたい」という思いは「恋をしてみたい」というのと同じくらい、実現から程遠い願望なのではないか。

恋をしてみたいと思っているうちは恋なんてできない。
好きな人がいて、この状態ってもしかしたら恋かもしれない、というのが恋だと私は思う。

同じ理屈で言えば、「小説を書きたい」と書いていることこそが、恋に恋している状態である。

うまく小説を書くテクニックは色々ある。しかし、なにを書いたらいいのかについての指南は少ない。
当たり前だ。何かを書きたい人がそれをどう表したらいいか試行錯誤しながら書くのが小説だからだ。
「小説を書きたい」だけで「小説でなにを書きたいのか」がない人に小説を書く資質はない。

雨が降っていた。今は知らない。眠気が押し寄せる。

そもそもこれだけ文章を書いたところで、これは小説ではない。きっと。

思うことは言葉にすることと一緒だ。
少なくとも私は言語化なしに思考できない。
言語化されないものは「感じる」しかない。
思えた時点で、考えられた時点で、それはきっと言葉だ。

しかし思いの言葉は脆い。淡い。すぐに消え失せてしまう。
その時言葉になったとしても、すぐに崩れて散って溶けてしまう。
自分が二秒前になにを思ったか思い出せない。今何を思っているかはわかるのに。

言う、書くというのは言葉を留め置く手段だ。ふと思った脆い言葉を、私の外に残す。

瞳を閉じる。脚を組み替えた。私が今感じている眠気は暖色系だ。今、紫へと姿を変えたが。

小説は言葉を留め置く手段なのだろうか?
話を留め置く手段のような気もする。いかに美しく、話を保存するか。

そうなると「話」というのは最初から存在することになる。
脳内に「書きたい話」を持たない私には小説は書けないのではないか。

どれだけ忙しくても料理もSNSも続けている。
なぜ小説だけ書かないまま生きてきたのだろう。

頭痛がしてきた。鮮やかな深緑色の液体を脳味噌の隙間に流し入れられるような感覚。

こんな文章などは誰に頼まれずともせっせとこしらえているというのに、小説はまだ書いたことがないという現実。
もしかしたら私は死ぬまで小説を書かないのかもしれない。
「小説を書きたい」と言いながらも。

流石に脳が重くなってきたので眠る。
これは、戯言。

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