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ミニマル/コンセプチュアル ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術/感想

冒頭のカール・アンドレからして、ミニマルというにはずいぶん詩的だった。詩的だから良いのだと思う。彫刻に文字通り足を踏み入れるのを躊躇う観客に、「ほら、おいでよ」と言わんばかりのコンラート・フィッシャーの写真。素敵だった。ミニマル/コンセプチュアルの可動域をゆるく捉えながら、豊かな問題群と戯れる試み。

1.ミニマリズム、函数、高速道路「萌え」

巧妙に排除されたかに思えて、かえって強く意識されるのは作品を【見る主体】である。

ルウィットの平行線は、一見非主体的でシステマチックに思えて、それが三次元空間にオブジェとして現れるなら、この眼球の曲面にそって視界の隅で歪んでしまう。
あるいは、例えばディベッツ《正方形の遠近法の修正/大きい正方形》を見る時の、視覚の揺らぎ。見る角度を変えるほど強く作用する。
あるいは、もはや崇高ですらあるフレイヴィンの蛍光灯を、しかし眩しさゆえに直視できないこの眼球。

作品との様々な関係に巻き込まれ、見る主体も、その函数によって変化していく。
それが演劇性として批判されるなら、しかし同じだけの理由で、それは楽しい。

最小限の手つきで世界の見え方を更新された私たちは、帰路にあって阪神高速の工学構造に「萌え」るだろう。ちょうどトニー・スミスの高速道路体験を逆算するように。美術館という函数への、入力と出力。

けれどまた同じだけの理由で、モダニズム的な“作品”の単位もまた混乱をきたしたのだった。そして問われるのが、美術館という“函”=制度である。


2.コンセプチュアル、制度、便器の形

ホチキス、布、テープ、または展示室の壁や照明。作品体験を構成する要素を、逐一検品するようなライマン。彼が絵画体験の物理的な構成要件を検討するなら、同じ白の上にリヒターは、イメージがいかに成立するかを問いかける(それ自体不可視のスクリーン=シャイン)。

あるいは、美術館の内/外を問いかけること。今回の場合はビュレンだろう。
あるいは、芸術家の名の下に選ばれるなら、それだけで作品として成り立つのか?ブロータースは署名によって、アートシュワーガーはブリップによって、その過程を問いかける。

デュシャンに潜在していたこうした問いかけは、コンセプチュアルアートによって、数十年越しにスポットライトが当てられたそうだ(1)。
便器の“形”は事後的に発見され、“コンセプト”を立ち上げた。


3.労働、明示された社会のサディズム、強迫観念

ところでそうした知的なゲームを、下から支える労働に思いを馳せること。重量のありそうなライマンの絵画を、作家が納得するまで何度も何度も持ち上げ/運ぶ、設置業者(※これは展示物ではなく、林寿美さんの講演会で、ライマン自身の設置の様子として見せていただいた過去の資料より。その様子自体、ある種の参加型アートのようだった。クレア・ビショップが『人工地獄』で60年代のアルゼンチンシーンに一章を充てて“明示された社会のサディズム”と題した事を想起)。

リチャード・ロングの枝の設置には2日かかったと言う。カール・アンドレの鉛も相当な重さだったそうだ。

ハンナ・アレントの分類に沿って、「活動」=SEA、「仕事」=普通の意味での作品作り、だと言われた時、「労働」としてのカール・アンドレ(2)?徹底して労働である事によって、その上部の“函”の中の知的なゲームへ、政治的批判を行う。

労働。

賃金・給与リストを書き連ねたダルボーフェン。
あるいは、スタンリー・ブラウンのキャビネットも、日々すぐさま消費されていく、終わりなき労働を思わせる。

それはまた同時に、コンセプトの強迫観念的な反復にも思える。思えばロングの枝を並べる作業も強迫観念的だった。


4.コンセプト→オブジェクト、数学のテスト

強迫観念的なコンセプトの実行という側面について、ロザリンド・クラウスは「ルウィット・イン・プログレス」に記している(3)。

それは例えば数学の確率のテストで、公式を使って計算すべきところ、起こり得る全てのパターンをいちいち余白に書き出す作業に似ている。

この公式=コンセプトはすぐさま超越的な位置に措定される。コスース自身やリパードによる、「コンセプチュアル・アート=非物質」の定義。 

「そしていったんインプレーとなったら、“コンセプチュアルアート”は美術界がすぐに持って走って“観念論(イデアリズム)”のテリトリーへ深く突き進んでいくラグビーボールのようなものとなった」(4)。

けれどテストの終了時間に追われながら血走った目であらゆるパターンを書き出す事で、得られた点数もあったのだった。
公式の見える化。メタレベルのコンセプトを、オブジェクトレベルへ可視化すること。

「見える」事によって、問題を解くこと。



5.オブジェクト→コンセプト、手紙

ナウマンやギルバート&ジョージはまさにその身体において、コンセプトを引き受ける。不条理に、脅迫的にそれを続ける。そしてメタとオブジェの重なる地点に現存在としての人間が在るのだろうか?

しかし河原温の身体は死んでしまった。「まだ生きている」という手紙が遅れて届く。遅れた至急報。文字通りの、デッドレター。
あるいは、《I GOT UP》で5月8日の郵便が紛失している。そして最後の7月31日も欠けている。それゆえに、ミニマルな方形の展示が可能になっていた。すると、2枚の欠けた郵便は「届かない」ことによって届いたと言えるのだろか?
どこまでが河原温のコンセプト通りだったのだろうか?
オブジェとしての郵便は、到着の時差によって、事後的にメタレベルのコンセプトを想定させるのだろうか?

オブジェとなる事で、誤配され、別のコンセプトが立ち上がることがあるだろうか。この文章も?
《100万年》の最後のページをめくる手を、いつも想像する。




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【参考】
東浩紀『存在論的、郵便的』新潮社、1998年
荒川徹『ドナルド・ジャッド 風景とミニマリズム』水声社、2019年。
池田剛介『失われたモノを求めて 不確かさの時代と芸術』夕書房、2019年。
沢山遼『絵画の力学』書肆侃侃房、2020年。
林道郎『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない』ART TRACE、2004年。
ロザリンド・クラウス『アヴァンギャルドのオリジナリティ モダニズムの神話』谷川渥/小西信之訳、月曜社、2021年。
浅田彰/岡崎乾二郎/松浦寿夫 編『批評空間1995臨時増刊号 モダニズムのハード・コア 現代美術批評の地平』太田出版、1995年。
『ミニマル/コンセプチュアル ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術』展覧会図録、DIC川村記念美術館/愛知県立美術館/兵庫県立美術館、2021年。

【註1】
『ミニマル/コンセプチュアル ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術』展覧会図録、DIC川村記念美術館/愛知県立美術館/兵庫県立美術館、2021年、p.22

【註2】
池田剛介『失われたモノを求めて 不確かさの時代と芸術』夕書房、2019年、p.37
沢山遼『絵画の力学』書肆侃侃房、2020年、p.213

【註3】
ロザリンド・クラウス『アヴァンギャルドのオリジナリティ モダニズムの神話』谷川渥/小西信之訳、月曜社、2021年、p.377など


【註4】
同上、p.380

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