命の価値は属性で決まるのか?

「戦争によって、多くの女性や子どもが犠牲になっています」
実に痛ましい文言だ。その痛み、苦しみ、悲しみを想像すると胸が張り裂けそうになる。実際に涙を流す人もいるだろう。

「〇〇人の民間人が犠牲になりました」
こんな文言も胸を苦しくさせる。無防備な人間に対して、残酷な暴力が襲いかかる様を想像させる。

だが、これらの文言に、ぼくは違和感を覚える。
なにも犠牲になった人たちに共感できないというのではない。「女性」や「子ども」、「民間人」といった属性が、なぜわざわざ明言されなければならないのか、それが疑問なのだ。

「男性」でも「大人」でも戦争の犠牲になった人を想うと、ぼくは胸が苦しくなる。「民間人」ではない、武器を持って戦う「兵士」にしたって同じではないか。一人ひとりがどんな人間かなんて知る由もないが、彼らはぼくらと同じ人類であり、心をもった人間なのだ。「女性」や「子ども」だから悲しいのではなく、同じ心をもった存在だから悲しいのだ。

だから、わざわざ属性をつけてしまうと、まるで「男性」や「大人」なら犠牲になったのも仕方ない、そう暗に言われているような気持ちになって、ぼくはもやもやする。「兵士」は誰かを殺しているかもしれないが、その「兵士」にも、これまで歩んできた物語があり、大切な人がいて、あるいは大切に想ってくれる相手がいるかもしれない。そんな「誰か」を犠牲になっても仕方ないなんて、そんな残酷な考えを無意識に認めてしまっていいのだろうか。

戦争が起こってしまえば、戦い合うのは仕方がない。だから「兵士」が犠牲になるのも仕方がない。
そんな考え方は、ぼくらが散々否定してきた戦争というものを認めているようで気味が悪い。
確かに、「戦争反対!」と声を上げたところで、戦争はなくなってこなかった。今も起きている。それを止め、撲滅する方法を、残念ながらぼくらは知らない。

でも、命の価値が、まるで属性によって決まってしまうような言い方なんて、すぐにやめるべきだ。メディアがそんな風に報道していたとしても、それを見ているぼくらは、心の中で「そうじゃない。誰が犠牲になっても悲しいんだ。苦しいんだ」と確固たる意見をもち、そのような意見をひとりでも多くの人に伝えてゆくべきだ。

だから、ぼくは今回、こんなテキストを書き残すことにした。もしかしたら、誰の目にも触れないかもしれないし、心にも残らないかもしれない。
それでも、たまたま目にした誰かの心に響いて「そうじゃない」と言える勇気を与えるかもしれない。そう信じて、ここに筆を置くことにする。

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