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蜃気楼旋風はフロックだったのか?

1958(昭和33)年、エースの村椿輝雄投手擁する富山県立魚津高校(以下、魚津)が夏の甲子園で"蜃気楼旋風"を巻き起こし、初出場ながら快進撃を見せベスト8に入ったうえ、板東英二投手率いる徳島商と史上初の延長18回引き分け再試合を演じたことはオールドファンには有名だと思います。この記事では果たしてこの蜃気楼旋風は本当に単なる"旋風"(つまりフロック)だったのか?について考察してみたいと思います。


蜃気楼旋風とは

1958年(昭33)、初出場すると快進撃を見せてベスト8まで勝ち上がった。主役を演じたのがエース村椿 輝雄投手。初戦の浪華商(現・大体大浪商=大阪)相手に2対0の完封勝利。優勝候補打線をわずか4安打に抑えた。2回戦では明治(東京)に7対6の接戦で完投勝利すると、3回戦で桐生(群馬)を4安打完封の3対0で勝利して8強へと進んだ。準々決勝は板東 英二投手(元中日投手)擁する徳島商と対戦。延長18回、0対0の引き分け再試合の激戦を演じた。25三振を奪った板東に負けじと、徳島商打線を7安打に抑え1点も与えなかった。再試合で敗れはしたが初出場での快進撃に、地元魚津の富山湾に現れる蜃気楼になぞらえて「蜃気楼旋風」と呼ばれた。富山県勢が夏甲子園1大会で3勝を挙げたのは、この時の魚津だけだ。

高校野球ドットコム 
魚津の右腕が「蜃気楼旋風」の主役を演じた1958年夏【ふるさとの夏物語~昭和編】より


この年の魚津の戦いぶりを、まずは春季大会から見ていきましょう。
(カッコ内は魚津のバッテリー)

1回戦 魚津9-3高岡商(村椿ー河田)
2回戦 魚津12-2砺波(村椿、森内、村椿ー河田)
準決勝 魚津20-1上市(村椿、森内ー河田、浦島)
決勝 魚津4-5滑川(準優勝)(村椿ー河田)

決勝で敗れた魚津は北信越大会出場を惜しくも逃しましたが、勝ち上がり方から強さが伺えます。4試合で45得点。倒した相手には高岡商も含まれています。ちなみに高岡商と言えば、富山県勢として甲子園に出場した初めての学校であり、1947年の夏に富山県勢として甲子園初勝利を挙げた学校でもあります。

そして夏 

夏の富山県大会、魚津は2回戦からの登場でした。

2回戦 魚津1-0石動(森内ー河田)
3回戦 魚津7-0富山商(7回コールド)(村椿ー河田)
準決勝 魚津6-2高岡(村椿ー河田)
決勝 魚津8-3滑川(村椿ー河田)

富山商をコールドで降して勝ちあがるなど、少なくともこの年、県内では1,2を争う実力があったのがわかります。ベンチには1年生の森内正親投手も控えており、初戦で完封するなど、決して村椿投手だけのチームではなかったのでしょう。決勝で滑川に春のリベンジを果たし、甲子園出場を決めました。

蜃気楼旋風

第40回の記念大会だったこの年、全都道府県から代表校が出場した大会でした。また、延長18回での打ち切りが導入された大会でもあります。

1回戦 魚津2-0浪華商(大阪)(村椿ー河田)
2回戦 魚津7-6明治(東京)(村椿ー河田)
3回戦 魚津3-0桐生(群馬)(村椿ー河田)
準々決勝 魚津0-0徳島商(延長18回引き分け)(村椿ー河田)
準々決勝再試合 魚津1-3徳島商(森内、村椿ー河田)

確かに富山県勢が大阪や関東の強豪を立て続けに破り、3勝するとは現在でも考えにくいことだと思います。そもそも、これが夏の甲子園で富山県勢が3勝した唯一の例なのですから。このように大健闘した魚津ですが、この年は秋の国体が富山県で開催され、もちろん国体にも出場しました。

確かに強かった

県営富山球場で開催された国体の高校野球の部(硬式)、ここでも魚津は勝ち上がります。

1回戦 魚津2-1高知商(村椿ー河田)
2回戦 魚津3-0秋田商(村椿ー河田)
準決勝 魚津1-4作新学院(栃木)(村椿ー河田)

この国体を制したのは、準決勝で魚津を降した作新学院でした。

『富山県高校野球史 1988』の1958年の項目の冒頭にはこのような一文があります。

秋の国体でも、魚津は準決勝へ進出。夏の成績がフロックでなかったことを証明してくれた。

おそらく夏の甲子園の時もフロック視する向きがあったのだろうと思います。だいたい、いち富山県民として自分自身もそう思っていましたから。しかし、確かにこの年の魚津の強さは「本物」でした。

おわりに

富山県勢は47都道府県で唯一、夏の甲子園でのベスト4がありません。しかし現在では独立リーグの球団(富山GRNサンダーバーズ)があり、社会人チームが増え、高校卒業後の受け皿が多くあるという意味では高校野球が強くなる下地はあると思います。近い将来、強くなった富山県勢が"旋風"を起こすことを地元民として期待しています。


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