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1950年の県営富山野球場~高校野球編~

1950(昭和25)年6月、富山市五福の練兵場跡に県営富山野球場が開場しました。現在も高校野球などで使用されている球場ですが、最初の年は色々あったようで、富山県の高校野球やプロ野球にとっては黒歴史(特に高校野球)となる「事件」がありました。今ならまず起こりえないことですが、当時のファンは血の気が多かったようで…。

この年、富山・石川・福井の高校が甲子園に出場するためには、各県大会を勝ち抜いたのち、8校が出場する北陸大会を制することが必要でした(全都道府県から出場するようになったのは1978(昭和53)年から)。この北陸大会は開場したばかりの県営富山野球場で行われたわけですが、その最初の試合で忌まわしい事件が起きました。

大会初日の7月30日には1回戦4試合が予定され、第1試合では高岡東部(現・新湊)対武生の試合が行われました。が、しかし。

この試合で二塁安広塁審(石川県派遣)のセーフの判定をめぐり、高岡東部高の一般応援団十数名がグラウンドにおりて、安広塁審に殺到、なぐりつけると言う不祥事が起った。

富山県高校野球史 1988 p72

新湊市(現・射水市)と言えば言わずと知れた漁師町。新湊高校が1986(昭和61)年のセンハツで下馬評を覆しベスト4まで勝ち進んだ「新湊旋風」の際には「新湊の街から人が消えた」と言われるほど野球熱心な土地柄ではあります。時代背景的なものはありますが、流石にやりすぎでした。

試合は高岡東部が3-2でサヨナラ勝ち。この事件はその後の試合にも影響が及び、第4試合の羽咋対高岡工芸の試合は予定より2時間遅れの午後6時に開始されました。しかもこの試合、試合の進行を早めるために「投手の投球はすべてストライク」とされたとか。その影響か、富山県大会優勝校の高岡工芸は敗戦。波乱の北陸大会を制したのは福井の若狭でした。

そしてこの事件の余波は秋にも及びました。秋の富山県大会は決勝で高岡中部(現・高岡)が富山中部に勝ち、富山県大会を制するという結果でしたが、富山県高野連は事件の責任を取り、県大会後にある秋季北信越大会の参加を辞退しました。(元々の予定はよくわかりませんが、この秋の北信越大会は金沢の石川県営兼六園球場で開催されたようです)

翌1951(昭和26)年の項目には以下のような記述があります。

昨年課せられた県外試合禁止の処分は、春、早くも解除。早いというより、この処分自体が酷すぎたのだから、むしろ遅すぎたのかもしれぬ。

富山県高校野球史 1988 p74

現在ではまず考えられない事件であり、この処分が妥当かどうかというのはなんとも判断がつかないところではありますが、新チームへ影響が及んだのは残念なことでした。

しかし、開業初年度である1950年の県営富山野球場ではもう一つ、野球史好きなら誰しもが知っているであろう事件が起こったのでした。ですが、それはまた今度。


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