物語る
私は、去年、交通事故を起こした。
不注意で横断歩道を歩いていた男性にぶつかり、骨折させてしまった。
相手は、100%悪くない。
私が、100%悪い。
私は今まで、知って、あるいは知らずに、人の心を傷つけたことを自覚している。
でも、肉体的に、人を傷つけたことは、なかった。
補償の限りを尽くし、法的な罪を償っても、人を傷つけたという事実は消えない。その人も忘れられないだろう。だから、私も忘れない。
100%落ち度がなかったのに、その人は、私に傷つけられた。
その人の立場から見れば、事故は、全く不条理なことだ。
現代の日本に暮らしていると、不条理な出来事にあたることは少ない。生きる上である程度の筋道が、そこにはある。
でも、実は、1枚壁を隔てたところに不条理な世界が口をぽっかりと開けていることを知った。
事故直後、私は、てきぱきと動くことができず、痛みを訴える被害者に声をかけたり、他の自動車の邪魔になっている車を移動させることにいっぱいいっぱいだった。
すると見ず知らずの通行人の方々が4人ほど集まってきた。女性は、救急車を、男性が警察を呼んでくれ、近くのケアホームから出てきた金髪の若い男性が被害者の家族に電話をかけてくれた。高齢の女性は、地面にあおむけに倒れた被害者の男性の頭にハンドタオルを差し込んでくれた。
誰も一言も私を責めなかった。
被害者もその父親も私を責めなかった。
その事実が、私の心をひどく震わせていた。
ある人は言った。
それはたまたま偶然そこに居合わせた人が、被害者の命を最優先に行動した、単なるその結果に過ぎない、と。
たぶん、そうなのだろう。
そう見るべきなのだろう。
でも、わたしには、世界にぽっかり空いた不条理の穴を、埋めようと、4人が来たように思えた。
それは、私に救いをもたらす、ひとつの「物語」だ。
太古から人間は、不条理な世界に生きてきた。
意味もなく生まれ、病気や戦争で死ぬ。
あまりの不条理に打ちひしがれる。
そんな世界の不条理さを埋めるために、人は、神話を生み出したのではないだろうか。
事故の前、私はエッセイや物語を「語りなおし」だと捉えてきた。
「物語る」とは、世界から掬い取った欠片を、つなぎ合わせて、意味を見出すことだと。
Aがあった
Bがあった
Cがあった
Dがあった
ではなく、
AがあったからBがあり、
Cが起こってDになった
と。
そのほうが腑に落ちる。理解できる。安心する。
でも、今一度、私は、自分自身を救うための「物語」から離れる。
筋道を立てずに、ただ、あの日、あったことを、傷つけた人と傷つけられた人のところへ、人が集まって助けたことを、ただ、書くことができるなら。
それは、きっと「物語」を越えた「大きな物語」であるだろう。
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