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仮初の希望だとしても

仮初の希望だとしても、
わたしはわたしを残し続ける。
つまらない、なんでもないわたしだけど。
死に損ねた私、生き残った私、ぎりぎりで拾われた私。
胸を張れる人生じゃない。
何か誇れるものを持ってるわけじゃない。
それでも今日も生きていて
こういう世界を見てるんだけど、
あなたも一緒に見てみない?って、
そんな気分で残すことにする。
生かしてもらってる世界、死ぬことが許されてない世界。
希望はあるよ、きっと嘘じゃない。
嘘だと疑わずになにかを信じはじめたら、
それが希望になるから。
わたしの周りのいろんな人が、希望を見つけさせてくれた。
わたしはその度に忘れて、また暗いところを見つめてた。
そんなわたしに呆れずに声をかけ続けてくれる人がいて
その人をわたしも信じようと思った。
その信頼関係で今は生きてる。
そういう生き方もあるから。
わたしは光になれないけど、
とりあえずは私の見ている世界を残してみる。

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わたしがここにいるということ、今日もわたしが生きていること。それを感じられるのは、目の前の人の目に私が映って、私が相手を動かした時(それは良くも悪くも)。笑ってくれたり話しかけてくれたり、認めてくれたらうれしい。あたかかい。あぁ今日も生きている、わたしとして生きても大丈夫、ってなる。わたしはあなたの目を見ながら、その中のわたしを見ている。

「わたし」が面白いこともあるのだと思う。小学校の頃からそうだった。本当のわたしは、うまく見せられなかった。見せ方もわからなかった。
やっと見つけたやり方で、わたしをわかって欲しくて、捨身で見せても上手くいったことはなかった。
言葉の奥で蔑んでみたり友人との話のネタにしてみたり。わたしだって気づいているから。おもしろいならそれで良い。でもあなたも笑われないように、仲間に足並み揃えながら生きるその生き方は、本当に楽しい?楽しいなら、いいとおもう。僕の歪さが出汁になるなら、その子たちと楽しく生きれば良いな、と思ってる。

もうわたしの話はしない。そう決めてた。

でも、わたしの中身は黙ってくれてなくて、吐き出す場所が必要だった。結局、うまくもないくせに、創作が好きだった。

最近、文章を書いたり曲を作ったりしようと手を伸ばす度に、「ぼくがクリエイトする意味=?」という文字が頭を掠めてしまうようになった。
しにそうなくらい自分の中に溜まり続けたなにかを吐き出したいから扉に手を伸ばすのに、自分で内側からの鍵を開けられずに窒息死していた。

意味を問う必要ができたこと。それは私が自分を恥じるようになってしまったから。私が私である意味、私が私を見せる意味、私がつまらない文章を書き続ける意味、上手くもない音楽をつくりつづける意味、私がそんなことをしながら生きる意味。

ちょうど読んでいた本に、今の私の答えが乗っていた。デカルトの『方法序説』に記された、暫定的道徳という四つの箴言の二つ目。

何かを決断する時は、それが最善策であるというつもりで遂行しよう。
…決断の正しさは神のみぞ知る。わたしたちは神ではない。しかし行動せずにはいられない。だから、神になったつもりで、自分を疑うことなく、それが客観的に見て最善の策であると信じて生きるしかない。

そうだ。
いまのわたし、「このままじゃあなたは要らない」という結論にしか至らなくなる。
あなたにあなたの価値を問われても、「わたしにはわからない」なんて、首を降ってしまう。
そんな人間にはなりたくない。そうじゃなくて、デカルトがもうひと区切りつけてくれてるじゃないか。知ってしまったからには受け入れてしまおう。

少し前にも、美術科の先生にそんな言葉をかけてもらってたっけ。
“これからの出会いの中で、いままでのあなたの経験に救われる子がいるかもしれない。賜物、というのは自分で見つけられているなら、それを大切にする。他の人と比べて、与えられたものが少なくても、それを埋めてしまわないで生かしていくんだよ”
わたしの生きる場所はあった。いつでもあったのに、わたしはいつでも見失う。
でも、こうやって誰かの背中を見て、誰かに教えてもらって、希望をまた見出せる。わたしたちは勝手に死ねないからね。先生、わたしもこうやって気づきながら、思い出しながら、いきます。


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