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クリード 炎の宿敵

はい、2019年最初の劇場鑑賞作は、「ロッキー」シリーズの続編でありながら、主役をロッキーからアドニスに世代交代して、今の時代のスポーツ映画として生まれ変わった「クリード」シリーズ。その第2弾「クリード 炎の宿敵」の感想です。(皆様、2019年も宜しくお願いします。)

ということで大元は問答無用の傑作ボクシング映画の「ロッキー」シリーズなんですが、今回の「クリード 炎の宿敵」ってシリーズ4作目の「ロッキー4 / 炎の友情」から直接繋がってる話なんです。「クリード」シリーズの基礎知識として、主役のアドニスは、ロッキーのライバルであり朋友のアポロ・クリードの息子(というか隠し子。前作はこの隠し子という事実からアドニスがいかに自己のアイデンティティを確立して行くかという物語でした。)なんですけど、その世界チャンピオンとなったアドニスに新たな挑戦者として名乗りを上げたのが、「ロッキー4」で試合中に父アポロの命を奪ったソ連のボクサーイワン・ドラゴの息子のヴィクターという。まぁ、そういうシリーズを跨ぐ因縁の話なんですね。

で、僕は「ロッキー」シリーズ、特に1作目は事あるごとに観直してるくらい好きなんですけど、もともとスポ根物はあんまり得意ではなくてですね。その上に人情物もそれほど好みではないという(まぁ、そういうスポ根と人情物に陥りそうな話に米ソ冷戦と謎の科学技術を併せてワケの分からないものに仕立てたのが「ロッキー4」なんですけど)。"己の信じたものに対し、血の滲むような努力をして、勝利を掴み取る"的な心情がいまいちピンと来ないと言いますか、「他人に勝ったからって一体何が?」って言うか、たぶん"ゴールが勝利"ってところにある種の虚無感を感じてるんだと思うんです。(だから、その勝利の果ての虚無までを描いた「あしたのジョー」なんかは好きなんですけどね。あと、あれです。「キャプテン」とか「プレボール」とか。あれらはストイックを通り越して登場人物自体が虚無ですからね。)あと、スポーツってそもそも身体能力の違いじゃないですか。身体が大きいとか反射神経が良いとかそういう持って生まれたところでわりかし大きな差がついちゃうもんで。もちろん、そういう端から勝ち目がないところに"努力"や"勇気"なんかをフル稼動させて挑む(そして勝利を勝ち取る)というのがスポーツ物の醍醐味ではあると思うんですけど、そうやって己の肉体改造までして"勝敗"に拘ってるのを見てると(いや、これは偏見ですし、そういうことが出来ない自分への保身から来る嫉妬なんですけど)、なんて言うかナルシスティックに見えてしまって、ちょっとまじめに観れないなって感じになっちゃうんですよね。(どうしてもふざけた目線が入ってしまうんです。すいません。)では、何故そんな僕が「ロッキー」シリーズは好きなのかというと、「ロッキー」には今挙げた様な要素が全くなかったからなんですね。

つまり、スポ根の根(性)の部分がないんですよね。一作目の「ロッキー」が素晴らしいのはロッキーに特に戦う理由がないところで。無名のボクサーのロッキーがなぜ世界チャンピオンのアポロと戦うことになるのかというと単なるアポロの気まぐれなんです。対戦する筈だった相手が負傷して代役の選手を探してる中で、全く無名の選手に挑戦権を与えるというアメリカン・ドリームを歌い世間の注目を集めるっていう戦略的な理由だったんですね。しかも、ロッキーはその申し出を「勝ち目がない」って理由で一度断るんです。なんですけど、そこには別の理由があると思っていて、映画の最後に(有名な「エイドリアーン」て)恋人の名前を呼ぶシーンがあるじゃないですか。あれのせいで、ヤクザな人生を送っていたロッキーがエイドリアンの為に戦ったと思ってる人いると思うんでけど、エイドリアンとロッキーは既に試合の話が来る前に恋人同士になっているのでそういうことじゃないんですよね。それまでのクソな生活から抜け出す為のきっかけとなるエイドリアンとの出会いは既に済んでしまっていて。つまり、ハングリー精神とか成り上がる為に戦ったんじゃないってことなんです。なので、「勝ち目がない。」っていうのは「勝たなくていい。」ってことなんだと思うんです。(ロッキーが試合後にエイドリアンの名前を呼ぶのは、自分とは不釣合いな場所に立っているロッキーが、一番の日常であるエイドリアンがそこにいることを確かめたかったからなんじゃないかと思うんです。)

では、ロッキーは何をモチベーションに戦ったのかってことなんですが、勝ち負けも名声も特に重要じゃない中で何を指針に自分を奮い立たせるというか、何かをやらなきゃいけなくなった状況で何に気づいたのかというと、「自分は何者なのか?」ってことで。誰かに認められたいとか知ってもらいたいとかじゃなくて、自分を自分で認められるかもしれないっていう一点なんですよね。人が何かとてつもないものに挑む時の理由がこれっていうのにですね。僕はもの凄く共感したんです。(これなら確かに自分にも戦う理由はあるかもしれないって思ったんですね。)で、「ロッキー」シリーズの根底にはずっとこのイズムが流れてて、前作の「クリード」もほぼ同じ構造のお話だったんですね。アドニスはインテリでお金も持ってて特に戦う必要なんかないんです。では、なぜ戦うのかって言われたら、隠し子だった自分の存在理由を示したいってことなんです。(そこにそういうことを経て来たロッキーの視点が入るというのが「クリード」シリーズなんです。)

で、やっと今回の「クリード 炎の宿敵」の話になるんですが、今回は思いっきり戦う理由があるんですよね。父親を殺した相手の息子から挑戦されてるわけなんで。(これは「ロッキー4 / 炎の友情」と同じ構造なんですけど、)ただ、純粋に自分の為にボクシングをしてた者がチャンピオンになって追われる立場になると、今度は"戦う理由"が出来てしまって勝たなきゃいけなくなるわけなんです。勝つことに意味が出て来るというか。なので、今回は"勝つことの意味"っていうのがテーマになってると思うんですけど、その答えの示し方がですね、素晴らしかったんですよね。

今回、"勝つことの意味"を体現するのはどちらかというと敵役のイワンとヴィクターのドラゴ親子の方なんですけど、父親のイワンは33年前にアポロの敵討ちにソ連に乗り込んで来たロッキーに負けてから、国家の威信、己のプライド、離れていった妻への愛などとにかく勝たなければいけない理由を溜め込んで生きて来ていて、その全てを息子のヴィクターに託しているんです。つまり、イワンの雪辱を晴らすことがヴィクターの"戦う理由"になってしまっているんですね。だから、映画はアドニスの父親の敵を討ちたいという"戦う理由"とのどっちの想いが強いかっていう"戦う理由"対決になっていくんですけど、ドラゴ親子のこれまでの生き方とか現在の生活が描かれれば描かれる程なんか切なくてですね。どんどんドラゴ親子に肩入れしてしまうわけなんです。ただ、アドニスの方も、ロッキーの反対を押し切って戦ったヴィクターとの初戦では(ヴィクターの反則により判定勝ちしたとは言え、)ボコボコにやられてしまっていて、ボクサーになったことで手に入れていたアイデンティティを失いかけていたんです。で、そんな中アドニスに子供が出来るんです。(要するに「ロッキー1」と同じ、精神的に満たされていく中で自分自身の欠落した部分に気づき、それがモチベーションになるってやつです。)それをきっかけに再戦を受けるという。まあ、あの、どっちにも負けて欲しくないというモヤモヤしながらも最高にブチ上がるシチュエーションになっていくんです。双方に勝たなければならない重要な理由があって、クライマックスに行くにしたがって映画のテーマになっている"勝つことの意味"っていうところにググッと迫って行くんですね。ただ、もう、こうなって来るとどう決着つけてもどっちかが傷つくじゃんて感じになるんですけど、そしたら"勝つことの意味"だと思ってた映画のテーマがある場面で"勝つことに意味はあるのか?"に変わったんですよね。最後の試合中のある場面で唐突に現れるんですけど、ああ、そういう決着の付け方かって。なんていうか、盲目的に信じて来たことから一気に解放されて許された様な感覚になる瞬間を見せられたと言いますか。ここはほんとに泣きました。(試合直後のドラゴ親子のやり取りというか、ヴィクターのリアクションがたまらないんですよね。)

ということで、今回も勝者の哲学とか敗者の美学ではなくて、生きていく上でのそれぞれの気づきのみが描かれているのが素晴らしかったです。

http://wwws.warnerbros.co.jp/creed/index.html

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