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私がLES WORLDの海外ワークショップに参加して感じたこと

時は2019年8月末

姫路出身の山陰国立大学生は、「就活」と称し、東京へ足を運んだ。

日本の首都東京は目まぐるしく流動し、動きの弱い物は淘汰されいく。

常に新鮮な刺激が欲しい私にとって、山陰は少し窮屈なのかもしれない。

東京はもはや「東京」であり、日本ではないようにも感じた。

私は「日本」を感じられる場所が好きである。

例えば、京都や金沢でも、大変「日本」を感じられる。

京都は華やかであり、金沢は優雅だ。また北海道は広大である。

だが「山陰の日本」は少し違う。

風景、情緒、自然、そして人

非常に質素である。

朝の陽だまりの中で猫が三匹、住宅の陰で朝寝坊をしている。

そんな風景が、どの観光地でも見られる。

「こじんまり」としているが、時がゆったりと流れ、大らかで、そして背伸びをしない。

山陰は私に、常に「ありのままで、自由でいいんだ」と思わせてくれる。

私はそんな山陰が好きである。

だが、新しい物が好きで、派手で大胆な側面もある。エネルギッシュに活動したいという若気の至り満々な私には、山陰は少し窮屈なのかもしれない。

私は人が好きである。

多くの人と出会い、語り、笑い、そして学んだ。

「人」から学ぶことは多い。当時は自分の知らない人間に出会いたい。自分の知らない知識が欲しい。

そんな中、私にこんな団体を紹介する人物がいた。

「私の知人が立ち上げた団体があって、孤児院にダンスや音楽を届ける団体があるの。絶対あなたに会うと思うの。」

私は服が好きである。

私の好きな素材があり、柄があり、デザインがあり、そして世界観がある。

就活やインターンシップであっても、絶対に私の服のセンスは揺るがない。

前面人の顔、背面ヒョウ柄のシャツや、色彩の強い幾何学的模様とバラの絵が合わさったブルゾンなど、上げ始めればきりがない。

そんな一貫した価値観や、センスを見抜いてくれたのだろう。

その団体の名は「LES WORLD(レ・ワールド)」

旅をしながら、私の大好きなダンスや音楽、絵画が出来る。

...最高ではないか

と思い、即日連絡をとり、晴れて私は「LES WORLD」の「キャスト」となった。

「LES WORLD」の主な活動は、世界中にある孤児院で、その孤児院の子供達と我々が作品を共創する団体である。

「誰もが自分のステージで輝ける世界」を目指し、世界中の孤児院やスラムの子どもたちとともにミュージカルを創っているNPO法人。

ホームページの夜とこのようなことが書いである。

海外で子供達と作品を共創することまたはその過程を「ワークショップ」と呼び、ワークショップを一緒に行ってくれる非常勤スタッフを我々を「キャスト」と呼ぶ。

「キャスト」の年代層は比較的若者が多い。

中には中学生もいるくらいだ。

ほかには

劇団四季のダンサーを目指す頭パヤパヤ未成年、看護学科で自身の当事者意識から起業を目指す大学生、メイド喫茶の女の子でチェコの医学部に入学予定のLJK。。。

みんな様々に個性があり、島根だと出会わないような人たちばかりだ。

かくいう私は大した個性もなく、みんなの個性に圧倒されながら私は2020年2月末に、ペルーはトルヒーヨ「LES WORLD」としてワークショップを届ける旅に出たのだ。

ちなみに当時はクっソコロナコロナ言われていたので、親にはまあまあ反対された。

以下、LES WORLDは「レワールド」として進める。


だけど、多くの学び、異種の価値観、感情はそれ以上にリターンがあった。

ワークショップが3月初旬に終わり、メンバーとラパスやウユニ塩湖、アタカマ砂漠など回った。

チチカカ湖とマチュピチュにも行く予定だったのだが、新型COVID−19の影響もあり、行けなかった。(大変遺憾である)

紆余曲折あり、3月20日に日本に帰り、現在は山陰の大学生として、自身ウイルスの影響もなく平凡に暮らしている。

南米旅の個人的No.1はこれなので、ぜひ読んでいただけると幸いである。

LES WORLDって何者??〜子供と接する4ヶ条〜

子供達にワークショップを届けるNPO法人「LES WORLD」

そんなレワールドには、子供達とキャストでより良い作品を共創する為、『子供と接する4ヶ条』なるものが存在する。

『子供と接する4ヶ条』は、子供達と一緒に作品を作る上で、もとより子供達と関わっていく上で欠かせない項目である。

内容は

*褒めすぎるくらいに褒める
*子供達はもらった言葉でできている
*完成させるより楽しいワークショップを
*ただただ愛をもって接する

この4箇条である。

私は、レワールドのキャストとなり、ある素朴な疑問が浮かぶのだ。

なぜターゲットが「孤児院」の子供たちなのか。

それは、事前合宿や実際の海外ワークショップを通じて容易に答えが出た。

「作品を作成していく過程で、キャストおよび子供達にカタルシスを図る」

これはレワールド海外ワークショップに向けての事前合宿や、実際の海外ワークショップを通じて推測した。私なりのレワールドの事業目標の解釈である。

ちなみにカタルシス(ギリシャ語でkatharsis)という言葉は、精神分析などにも使用されるが一般的には

心の中に解消されないで残っている感情や気持ちが、何かをきっかけにして取り除かれること

また

悲劇が持ってる見る人の心に恐れと哀れみを呼び起こし、その感情を浄化する効果

である。

レワールド代表の「志藤大地」さんとダンサー「田中こうすけ」さんとのやりとりで

こ「〇〇っていう国にいた時に、物乞いをしてくる子供が居たんだ。僕は何も渡せないから、ダンスを踊ってあげたんだよ。そしたらその子は泣きながら僕にお金をくれたんだ。」

こ「エンターテイメントなら何か世界を変えられると思うんだよ。

このエピソードは私が直接見聞きはしていないが、志藤さんが事前合宿で語ってくれたエピソードだ。

上記のエピソードを私は鮮明に覚えている。

その子の服は?ご飯は?家族は?

幼いながらにしての辛い経験は、私の比ではないだろう。

ダンスを見て、彼の中で何かが変わったのかもしれない。

物乞いでしか生きられないその国の子供にとって、こうすけさんのダンスは、

どんな高い服より、どんな高い貨幣より、

素晴らしい贈り物だったのだろう。

思わずお金を払ってしまうほど。

何不自由なく明日が迎えられるかわからないのに。

・・・

上記のこうすけさんのエピソードで、レワールドが志藤したと言っても過言ではない。

物乞いをしていた子供の体験したカタルシスは大地さんに大きな影響を与え、そして、ただ子供達にパフォーマンスを披露するだけでなく作品を「共創」する方向となった。

事実、作品およびその役割を強制されるより、みんなで人それぞれの長所や短所を探しながら、コミュニケーションをとりつつ適職を探すことでより高い親密感、心理的安全が得られ、より高いカタルシス効果を得られる。

そして『子供と接する4箇条』は子供達やキャストにとって高い親密感や心理的安全を得られる効果があることは自明である。(ちなみに『子供と接する4箇条』はキャスト間でも適応され、暗黙のルールのようになっている。)

これからこの『子供と接する4箇条』について、自身の体験や思想から見解を述べる。

(何方かと言えば『これ』に倣ってワークショップを作るときに感じた感想に近い)

私はレワールドの全てを知っている訳でないので、ここから先は事前合宿、実際のワークショップ、またレワールドキャストとの交流を通じた、あくまで私個人の感想として閲覧してもらうと幸いである。

1。褒めすぎるくらいに褒める

「人間は相手の悪いところが見えやすい。だから相手の良いところを見ようとすることが大事。」

高校生の時、青年梅本はギターマンドリン部という部活に所属していた。

大会が近くなると、普段の練習の成果や楽譜に倣っているかどうか、個人の技量を図るため、各楽器パートにおいて一人ずつ演奏し、引かない子たちはその演奏や演奏した個人の技術のフィードバックを行う「ひとり弾き」なるものが存在した。

自分一人だけ。間違えたり、引けなかったらバレる。という心理状態の中、やはり演奏者のパフォーマンスは下がる。

聞いてるこちら側としては物申したいことは沢山ある。

「全体的に弾けてない」「指揮を見ていない」「指が追い付いていない」

相手のポテンシャルやバックグラウンドを無視したフィードバックは簡単である。

「人間は相手の悪いところが見えやすい。」とは、相手のポテンシャルやバックグラウンドを加味せず、自身の持つ指針で相手のフィードバックを行うことで満足感を得ることは簡単である、とうことなのだろう。

「ここがスラスラ弾けるようになったね」「前より音が出るようになったね」

自身の技量や、その子との関わり、また余裕によって生まれるフィードバックは、された者にとって価値のあるフィードバックだと思っている。(口で言うほど簡単ではないが...)

私にとって「褒める」とは「相手にとって価値のあるフィードバックを行うこと」だと思っている。

...という風に私の価値観を述べたところで、話をレワールドに戻そう。

作品を作るとはいえキャスト全員が芸術に精通しているわけではないので、的確なフィードバックを与えることはできない。

ましてや異国の地である。

慣れない言葉で、その土地のニュアンスで相手を褒めることは至難である。

ましてや子供の行う言動は精神的や知能的、身体活動的において未熟な面が多く存在する。

レワールドにおいて「褒めすぎる」をどういった定義においているかは不明だが

私の推論では「何かを過剰に肯定する」ことなのだろうと感じていた。

そして、そのような場面で、人間は人間の何を肯定するのか。

それは「人格」や「その子の持つ資質」である。

例えば、逆立ちが綺麗にできる子供に対しては

「腰が反ってない綺麗な逆立ちだね」ではなく

「すごいね」「かっこいい」「天才だ」という風に表現する。

つまり

逆立ちという行動に対するフィードバックではなく

逆立ちができる「その子」を肯定することになる。

2。子供達はもらった言葉でできている

精神的や知能的、身体活動的において未熟な面が多く存在する子供にとって周囲の環境は子供のこれからの将来にとって、大きな変数となる。

長期的観点では人格や資質を過剰に肯定することで、周囲からの評価に依存してしまう可能性も加味しなければならないと感じる。

「天才だ」と褒められたからにはその子は「天才」でなければならない。

常に周囲からの「天才である」という評価を求めてしまう人物ではあって欲しくない。というのが私のエゴである。

人格や資質を肯定する言葉は、いわば劇薬なのである。

ただネガティヴな発言をしないだけでは、「子供たちはもらった言葉でできている」この真の目的は達成されないであろう。

発言には常に「責任」を伴う。この項目は、一見子供達のためのようで、我々キャストの立ち回りやリテラシーが試される項目でもある。

3。完成させるより楽しいワークショップを

作品のクオリティを求めるのではなくその過程を重視しよう、ということなのであろう。

レワールドがこのような項目を掲げることは納得がいく。

私が解釈しているレワールドの事業内容は「作品を作成していく過程で、キャストおよび子供達にカタルシスを図る」である。

作品というのはあくまで手段であり、その過程にあるカタルシスが目的である。

それを理解した上で私は作品のクオリティを求めてしまう。

クオリティの高い作品を目指すために、毎日より良いワークショップを作っていきたいと考えていた。

当時私は、より良い作品を作ることが子供達にとって大きな成功体験となり、今後の活力になると信じていた。

意見やアイデアを求められた際に、一方的に見解を行うこともあり

また、キャスト内での自身の係の立ち位置による裁量権の制限や、ワークショップ、ミーティングの方針に段々と違和感を覚え、私と他メンバーとで大きな乖離が存在した時も多々あった。

今考えれば、「子供達と最高の瞬間を共創する」というビジョンを掲げているレワールドにとって「最高の瞬間」とは、作品が完成した瞬間のカタルシスだけでなく、過程においてカタルシスを感じる瞬間も含まれるのかもしれない。

そこに早く気づけていたら、もっと私の心の荷は軽かっただろう。

ちなみに、お互いの良かったところを褒めあう企画や、交流が不十分なキャストと二人組になり、お互いの自己紹介を行う企画や、キャンドルを焚いて、自身のバックグラウンドから今の感情に至るまで、自由に発言をする企画があったりなど、キャストのみのワークショップも存在する。

このような企画は、一定数キャストにとってもカタルシス効果を発揮する(後述)

キャストとしてワークショップに参加し、それ以降も自身をさらけ出す、またはさらけ出すようになった人は一定数存在する。

そういう意味ではこのnoteは、自分自身にとってある種カタルシスなのかもしれない。

4。ただただ愛を持って接する

ここまでにおいて、「成果主義の冷血な山陰田舎小僧」というイメージが着いてしまったのかもしれない。

間違いなく断言できるのは

私は子供たちを愛している。どんな子供達であっても。

それはペルーの子達であろうが、ふんだんに愛を持って接している。

こんなエピソードがある。私の子供愛が伝われば幸いだ。

愛しているからなのか、言葉が通じないのか、はたまたその両方か、私含めキャストは子供達に対するスキンシップが激しくなる。

抱っこにおんぶ、肩車、ドッチボールや鬼ごっこを通じて、子供達と楽しくワークショップをする中で、

学校から「これ以上子供達に触れないでほしい」と通達が来た。

ワークショップ残り2日にして、である。

ペルーでは子供に対する犯罪が非常に多い。

我々はただただ子供達に愛を持って接しているだけだったのだが、

スキンシップがどんどん激しくなる我々キャストを見て、保護者及び学校職員は少し危機感を覚えたのだろう。

犯罪が多いという社会的背景やそれによる周囲の人間たちの偏見の壁は、私の予想よりはるかに壮大で、崩すことも、登ることも、回り道をすることもできない。

私はあまりにもちっぽけだった。

無力感と同時に悔しさがこみ上げてきた。

そんなことはつゆ知らず、子供はいつもの通りおんぶや抱っこ、肩車をせがんでくる。

通訳の人に「本当に申し訳ないけれど、子供達には触れないで」と言われたその瞬間、何もできない自分は物音を立てることなく崩れていき、その場を去り男子トイレで一人泣いてしまった。

そんな中でも人々の日常は変わらない。

みんな半袖半ズボンで街を歩き、昼食をさらに彩ってくれる楽団、巨大な空のドームの下でさざ波とともに戯れる人々、夜にギター一本で歌を提供してくれるおじちゃん。

こんなに陽気で明るくて暖かい人たちばかりなのに、なんで犯罪が起こるんだろう。

そんなことも考えていた。

そんな中で、目は充血し、ヨダレと泥にまみれ、私の腰以上の体高もある野犬達の姿が、ペルーの夜の獰猛さを毎日物語っているのであった。

次の日

子供達の雰囲気は変わらない。ただ、普段のようにスキンシップを求めてくることはなかった。

その物分かりの良さが、さらに私の心をえぐるのだが、特定の子からのスキンシップがなくなった代わりに、普段恥ずかしがっていた子がたくさん私のもとに集まった。

うまく自分を表現できない子にとってはいい機会だったのかもしれない。

「子供達に触らないで」と言われた当初は自身の無力感にさいなまれていたが、新たな子供達と深く関わることができ、スキンシップだけでしか愛を表現していなかった自分に鞭を打ってくれた良い機会だったのかもしれない。

その子達にはじっくりと時間を注いだ。その子のペースで。

最終的に作品は結局キャストがほぼほぼ強制的になんとか完成に持っていった、という形だったが、この作品を作る過程において子供達に私達の愛が伝わっていれば幸いである。

ちなみに最終日は子供達全員にとことんスキンシップをしてやった。もちろん自分を表現することが苦手な子供達にも。

レワールドの価値観

ここでは、レワールドがこのような事業を行う上での、バックグラウンドとなる価値観について推論していきたい。

ここでは二つのエピソードを述べる。

●事前合宿でのキャストに向けてのワークショップ

海外ワークショップの少なくとも1ヶ月以上前に、カンボジア、インド、ネパール、そしてペルー旅立つそれぞれレワールドメンバーを総じて、キャスト間での信頼関係構築のために事前合宿があった(常に行っているかどうかは不明)

レワールドではブラジルの作家パウロ・コエーリョ著者「アルケミストー夢を旅した少年ー」を題材にし、キャストに向けたワークショップを行う。

スペインの羊飼いの少年サンチャゴが旅の中で、主人公サンチャゴの各所エピソードの回想を、自身に置換するワークショップである。

「あなたの人生の分岐点はどこですか?」

...などなど(パッと出てこなくて申し訳ない...)

共通するのは、それぞれの質問の時間軸は全て過去である。

過去どのような状態や決断があり、どのような今があるのか

これを問われる質問で構成されており、大方のキャストは過去をさらけ出すことでカタルシスを感じていた。

合宿最後のイベント「トーキングサークル」

個人それぞれ思い思いに自分のことを語る。

そして何かしらのカタルシスを感じる。

当時はなんとも不思議な光景だったのを覚えている。

●ワークショップ初日の為のミーティング

ワークショップ初日の為の1回目のミーティングにして、早速私は浮いてしまった。

聞いてる側からすれば話の着地点がいつなのか、どこなのか。

一人で脈絡もなく喋りすぎてしまう癖が出てしまった。

そうめんが流しそうめん機でぐるぐる回っており、掴む際には一部分のそうめんしか掴めない。掴むテクニックやタイミングが揃わないと、赤いそうめんは取れない。

私の頭の中は、ミーティングに関係あることもないことも、全て流しそうめん機に入っており、食べたい色のそうめんは自分でもなかなか見つからない。

何回かトライし、流しそうめん機に慣れることで、やっと赤いそうめんを食べることができる。

伝えようとするほど、流しそうめん機の水流は強くなり、掴むテクニックやタイミングが追いつけなくなってしまう。

梅本拓海、生誕元来の特性である。

当時の総監督と私だけの会話だけになり、周りが凍り付いてしまうだけの結果に終わったミーティングを見かねて、志藤さんはこう言った。

「拓海が喋ってる様子から強い承認欲求を感じる。なぜその承認欲求はどこから出ているのか、過去を教えて欲しい(・・・的なことを聞かれた気がする。間違えてたらごめんなさい)」

そんなつもりはなかったのだが、志藤さんにはそう感じたのだろう。

私の深層心理はもしかしたら承認欲求なのかもしれないが、深く議論をしてしまおうものなら、それは誰にもわからなくなる。

少なくともそんな気持ちはなかったはずである。

最終的に志藤さんは、僕の特性を理解してくださったので結果OKであるが、

「承認欲求がどこから来ているのか、過去を教えて欲しい」

その言葉を聞いた時、違和感を感じたのを鮮明に覚えている。

最後に〜「過去があり今があるか」と「今があり全てがあるか」〜

上記のエピソードより、レワールドの根本の価値観は推測できる。

過去の体験により現代の状態に起因できる。

かくいう私は、あまり過去には重点を置かない。

概括的に言えば「今があって全てがある」という価値観の人間である。

詳しくは語らないが、ここでは深層心理学から「アドラー心理学」を例に出す。

たとえば幼少期に虐待を受けた人が、精神病にかかったとします。この場合、「幼少期の虐待が原因で精神病になった」のではなく、「精神病になった理由を幼児期の虐待のせいにした」と捉えます。人は原因によって行動するのではなく、現在の目的によって行動しているのだとするのが、アドラー心理学の考え方の特徴です。

私は先天的かどうかわからないが、このような思想を持っている。

そもそも、自身の過去や未来についてはあまり興味のない性格なのだろう。

ただ間違いなく

今の行動に全てを起因させる私

にとって、レワールドの存在は新たな価値観の賜であり、私に多くの学び、人、感情を与えてくれた。

ワークショップが無事終わり、今なら彼らの感じたカタルシスが何と無くわかる気がする。

レワールドとして体験した出来事やレワールドという存在は、私の人生を支えるものになると私は感じる。

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