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ムツゴロウの放浪記

引っ越しの多い半生で、そのたびに本を売り払って荷を軽くする。それでも手放せない本だけが残る。植村直巳『青春を山に賭けて』、野田知佑『旅へ』、ロバート・ハリス『エグザイルス』、檀一雄『青春放浪』。灼けるような若き魂の遍歴。あぁ、こんな人たちがいたのだ。苛烈な苦悩と心許こころもとない一条の光、吹き抜ける清々しさに会いたくなると、私は書棚の文庫本を抜いてページをめくり、自らに「許し」を得るのだった。

畑正憲『ムツゴロウの放浪記』も、その一冊である。1983年に文庫本が出版され、2010年前後にブックオフで買った時の200円の値札シールが今もついている。おそらくは絶版で、アマゾンで検索すると中古の文庫本に4,980円(!)の値がついている。先日4月5日に氏がこの世を去った影響だろうか。

氏はテレビ番組で名を馳せ、多分野で活躍されたが、私にとっては作家である。数多あまたある著作の中で本書が代表作として紹介されることはない。しかし、私にとっては傑作である。

氏は東京大学理学部の大学院生で、結婚して安アパートの一間に暮らしている。生活のために予備校教師や翻訳などで糊口をしのぎ、研究生活に力が入らず作家を志し、推理小説を書いては応募している。

やがて研究室には顔を見せなくなり、夫婦でパチプロ生活に入る。子を宿した妻を九州の実家に帰してパチンコと麻雀に明け暮れ、借金と家賃未払が重くのしかかる。とうとう部屋を明け渡し、家財道具を売り払い、宿なしとなって路頭に出る。

池袋の雑踏でリンゴをひとつ買い、かじり、そうだ青森へ行こうと思い立ち、上野から列車に乗る。仙台の手前で途中下車し、宿をとり、川へと向かう。その時、氏は死にいざなわれていた――。

全編を貫く虚無、焦燥、喪失感にもかかわらず、力のみなぎりがある。交錯する人間模様、両親を苦しめる戦争体験。妻である純子さんのおおらかさと逞しさには心打たれる。氏はやがて蘇り、再起を決意する。

氏は自らを信じたのではなく、世界を信じたのではないだろうか。内に傾倒したとしても、外を生きたのではないだろうか。動物と暮らしながら、ヒトという種を生きたのではないだろうか。

一時期、私は誠実に生きようとしたが、やめた。氏をはじめとする先達から受け取ったのは、正直に生きることだった。怖いのは死ぬことではない。生きなかったことだ。

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