読んだものの感想

最近読んだものの感想(あくまで自分用に書いたものです)

碇陽子 2018 『「ファット」の民族誌 : 現代アメリカにおける肥満問題と生の多様性 』明石書店
 概念分析的アプローチを取り入れつつ、「肥満」や「ファット」などの概念が政策や社会運動の実践の中でどう生き、人々を突き動かし人々によって動かされていてるのかを丹念に追う。ファット・アクセプタンス運動とフェミニズム運動との「ぎこちない」関係を、「ファット」概念の特殊性に注目して論じる章、そして人類学が「多様性」をいかに論じるか、がテーマの終章は特に重要(重要であるだけに、若干の異論やオルタナティヴな議論の余地はありそうだが)。調査途中から運動に関わるようになった経緯など、調査としても参考になる。

舌津智之 2002 『どうにもとまらない歌謡曲::七〇年代のジェンダー』晶文社
 70年代歌謡曲をジェンダー(そして、セクシュアリティ、クィア)批評の観点から(十分な量で)論じる稀有な著作。これでもかと歌謡曲のタイトル、歌詞が引用され、(知らない曲も多かったものの)頭の中を歌謡曲たちが駆け抜ける。読むだけで楽しい。山本リンダ+阿久悠が生み出した曲のクィア的可能性。殿様キングス・ぴんから兄弟の曲を視覚・聴覚イメージと歌詞の読み解きで「撹乱」的なものとして捉える可能性。歌謡曲における手紙、時間への着目。時代の空気が歌謡曲を生み、歌謡曲が時代の空気を生む。

綾屋紗月・熊谷晋一郎 2010 『つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく』NHK出版
 アスペルガー症候群、ALSの身体を生きる著者二人が、「当事者研究」と出会うことで、自身の経験をいかに捉え直し、共有し、行動していくのかが平易でありつつ、ディテールのある描写とともに盛り込まれている。身体をもった存在としての人間が、環境と向き合う、もしくは混じり合う、その仕方の多様さへの視座が含まれている(使えそうな概念、モデルあり)。そしてさらに、「当事者」「研究」という概念の捉え方を揺さぶるような、「当事者研究」の実践についてのガイド的な著作でもある。身体感覚の次元も視野に入れたマイノリティ・スタディーズを実践する上で参考になりそう。

難波美芸 2018 「ラオス首都ヴィエンチャンの可視的なインフラと『疑似-近代』的なるもの」『文化人類学』83(3):04-422.
 ヴィエンチャンにおけるインフラ整備の進められ方、そして外国人技術協力者、ラオス人官僚などへの聞き取りに見られる態度について論じられる。「フェティシズム的インフラ」の議論を、(フェティシズム概念の起源である)アフリカにおける「フェティッシュ」についての植民地的状況、そしてそれに関する人類学的議論と突き合わせる点がオリジナル。ヴィエンチャンの都市空間の整備(史)、道や川岸の整備に関する情報が何より参考になる。政府、開発関係者の思惑、態度が分析の中心なので、そこを実際に移動する一般住民の振る舞いへの影響は分析されないものの。

岩谷彩子 2009 「語りえない夢のゆくえと自己変容――インドの移動民社会を事例として――」『文化人類学』74(3):441-458.
 インドの移動民ヴァギリの夢についての語りについて、場や当人の置かれた状況の変化による語りの変容、夢の内容の変化、反復に注目する。夢を見て、それを語り、(語り手と聞き手が)様々に解釈し、儀礼を行ったり振る舞いを変えたりし、そしてまた夢を見る…というヴァギリの人々の実践に、<身体-自己>が反復しつつ変容するプロセスを見出す(この身体-自己感覚論への示唆は、極めて興味深い)。同著者の民族誌への箭内書評のように発展させて考えれば、これは民族誌的「自己論」につながる。(夢の中の感覚、運動イメージについての言及、語りの共有、解釈の不一致の局面(社会的なものに触れる局面)への目くばせも重要)。

福永玄弥 2017 「性的少数者の制度への包摂をめぐるポリティクス―台湾のジェンダー平等教育法を事例に―」『日本台湾学会報』19:29-49.
 台湾で当初制定が目指されていた「男女平等」としての「両性平等教育法」ではなく、「ジェンダー気質」(この概念自体興味深い)「性自認」「性的指向」などの要素も含めた「ジェンダー平等教育法」が起草され成立するに至った経緯を丹念に検討していく論考。個々の詳細事実は別として、「ジェンダー」概念とそれによるアクションが「トランス」の人々の問題や、それだけでなく性的指向の問題までをも、差異を消去することなく重要なイシューとして含んでいった過程は注目に値する。台湾や、漢語圏における概念の特殊性を考えても面白いのではないか。「性」「性/別」(何(2013))「性的少数者」などの概念。法案起草過程が外部に開かれていたがゆえに、「主流派」とは時に対立関係にもあったフェミニスト、クィア活動家たちの議論が法案制定に影響を与えるに至った過程はユニーク(日本ではないこと)。
                                  牧野冬生 2015 「プノンペンの成立と他者性―都市生活の背後にある空間構築史―」『駒沢女子大学研究紀要』22:205-220.
カンボジア、プノンペンの都市空間の構成、変遷を概観する内容。フランス植民地期、内戦とその後の復興に伴う人口構成の変化が都市の居住空間(特にエスニシティや出身、階層による住み分け)の編成に大きく影響していることが示される。メコン川やトンレサップ川など四つの川が合流する箇所にフランス植民地政府(下級役人の多くはベトナム人だったという)主導の都市計画によって発展したという歴史、現在のプノンペンにみられる住居のタイプについての(写真も交えた)解説が非常に参考になる。都市論的な議論はあまり多くはなされず、事例記述中心。ヴィエンチャンにもみられるような商店と住居が一緒になった建物は「ショップハウス」と呼ばれ、華人によって作られたものが中心なのだとう。

打越正行 2011. 「沖縄の暴走族の文化継承過程と〈地元〉――パシリとしての参与観察から――」『社会学論考』32:55-81.
沖縄の暴走族グループで「パシリ」をしながらグループ内での「社会化」の過程を参与観察した筆者による論考。30人ほどの規模で維持されるグループの若者たちが集まる〈地元〉が、「にーに」と呼ばれるリーダーが提供する倉庫やダーツ、トランプなどの道具を「資源」として行われる相互行為において、暴走行為などでの些細なエピソードが「一回性の歴史」として共有される中で成立することを示す。外部の全体社会への抵抗でも属性の同一性でもなく、適切な規模(そして安定性)と資源を具えた場が存在することが、先輩から後輩への「文化」(この語の使用の適切性については十分に説明されない)の継承を可能にしていることが示される。一方で結論ではこうした〈地元〉が当たり前ではなくなっている=小集団の解体の臨界状態であることにも触れられている。また、著者の「パシリ」としての調査過程について記述の端々からうかがえ、それも面白い。

4/6
堀真悟 2015「クレイム申し立ての認識論と『出会い損ない』――カミングアウト/クローゼット論を手がかりとして」『Gender&Sexuality』10:33-60.
「クレイム申し立て」概念がカミングアウトを原型として提唱されたものであることをヒントに、カミングアウトの問題がクローゼットの問題と切り離せないように、クレイム申し立てに関わる社会学も、クレイム申し立てと認識されないような、了解不可能な「出会い損ない」の経験を考慮に入れ、概念枠組みを常に問いなおし続ける必要があることが論じられる。「クレイム申し立て」と「カミングアウト」との関連から、「カミングアウト」概念についてなされている議論を「クレイム申し立て」概念にも活かすという発想は斬新。「リアリティ」という言葉の使い方に引っかかる部分はあった。

4/15
福永玄弥 2017 「同性愛の包摂と排除をめぐるポリティクス:台湾の徴兵制を事例に』『Gender&Sexuality』12: 157-182.
台湾で徴兵制に同性愛者の男性が「包摂」されるにいたる政治的・言説的・社会運動的背景をたどった上で、90年代の大陸中国との軍事的緊張関係の中で、アメリカ・クリントン政権下での同性愛者の兵役制度への包摂過程が事あるごとに参照されながら、「制度への包摂」というリベラルな言説の装いの下で、(その実)婚姻制度など同性愛者の人権問題が広く十分に論じられることなく、なし崩し的に同性愛者男性が徴兵制度に組み入れられた、という経緯を描き出す。徴兵制度に組み入れられることへの当事者(活動家)たちの戸惑いや、「男役」は問題ないが「女役」の徴兵制への参加は困難だという言説があったことなどが特に興味深い。ラオスの兵役制度について調べる必要性を痛感。ラオスではここに出家か軍か、という選択が入ってくる。

4/29
McGuire, Matthew Leyshon. 2018 "The Problem of Technological Intergration and Geosocial Cruising in Seoul" New Media & Society, 20(1): 369-383.
(途中まで)デジタル人類学におけるオンラインとオフラインとの関係、方法論についての議論を概観し(BeollstorffやMcGlottenもでてくる)、両者の関係をローカルな文脈の中で考察しようとする。韓国のゲイ男性が用いるネットアプリでは、日常生活とアプリとの「統合(integration)」が不安を生じさせていることを指摘する。

4/30
佐久間寛 2019 「祓えぬ負債に憑かれること――ニジェール西部における調査経験から――」『白山人類学』22:61-79.
「負債」をめぐる人類学的議論、過去の調査地における「負債」に関する実践について概観した後、もはや首都で元助手に会うしかなくなった調査者が経験した一つの出来事をめぐる解釈が展開されていく。調査者自身の存在が、どのように「負債をめぐるポリティクス」に巻き込まれていったのかを探る議論は非常にスリリングだし、結論以下での記述はさすがという面白さと切れ味。調査に関する謝礼に元助手が、自身が村で負う借金と関連させて不満を述べた一件は、筆者と元助手との関係が、細かく金を要求するドライな関係になり果てたことを意味するのではなく、むしろ、村には行くことができない調査者との関係を、金銭的でありながらそれだけではない力を持つ「負債」を通じて、積極的に持続させようとしたのだ、という解釈が興味深い。村での元助手の借金の相手は?(調査者と元助手との間に、村における債権者の存在が入ってくる?)バス代を十分に払わなかった2015年の出来事が、2018年の出来事にどのように影響しているのか、という観点が欠けているのではないか、という気もした。



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