ニューヨーク大学教授のアヴィタル・ロネルが院生へのハラスメントで告発された一件から

ニューヨーク大学教授のアヴィタル・ロネルが指導する院生からハラスメントで告発された一件について、
記事を読んだり、関連する情報、反応を調べたりしていると、アカデミアの世界の問題が見えてくる。

特に、周辺の一部の研究者、クィア・スタディーズの有名どころとも言える学者たちの対応が批判されている。
例えば、後に撤回、謝罪したものの、ハラスメントの告発を封じ込めるような書簡の草稿(結局送られる前にリークされた)にジュディス・バトラーが名を連ねていたり、
また、リサ・ドゥガンはブログ記事(https://bullybloggers.wordpress.com/2018/08/18/the-full-catastrophe/)  で、セクシュアル・ハラスメントとなるような内容を含んでいるとされるメールについて、告発した院生は「コードを文字通り読もうとしている」と述べたり、メールの内容を「クィアな親密性」と表現する。しかしこの態度は、「ハラスメントだなんて言われちゃ冗談も言えない」「真に受ける方がおかしい」などと冷ややかに言う、ハラスメント加害者とその擁護者の常套句にきわめて似通って見える。

さらにドゥガンは、「男性だったらここまで激しく告発されない」、「これはミソジニーである」、「個々の告発にこだわるのではなく、より広い権力の構造に目を向けるべきだ」とコメントしてもいる。確かに、告発された個人を攻撃に終始すするのみでは不十分であるということ、ハラスメントというものが単純化して捉えにくい現象だというのは分かる。しかし、「個々のケースよりも構造的問題を」「男性だったらここまで激しい告発がなされただろうか」などと述べることは、巧妙な形で告発を封じ込め無化するような態度として、批判を受けても仕方ないのではないか。

さらに言えば、ここで目を向けるべき「より広い権力の構造」とは、ハラスメントの告発に居合わせた(ドゥガンを含む)研究者が学問的権威を背景に、ハラスメントの告発を無効化しかねないような立ち回りを不用意に行うこと、もっと言えばそれ以前に、アンドレア・ロング・チューの記事(https://www.chronicle.com/article/I-Worked-With-Avital-Ronell-I/244415)でも触れられているように、「気難しい『先生』のご機嫌を損ねないように」「これくらいは我慢するべきだ」と言いながら、ハラスメントを温存するようなアカデミアの世界の「構造」なのではないだろうか。(ここまで来るとなおさら、一大学院生として他人事と思えないのである)

さらにはこの件からは、男性がハラスメントの被害を告発することの特有の困難に思いをはせることもできよう。

もしくは、個別性や身体性に寄り添うかのように見えてその実、「構造的問題」の名のもとに、個々の事例を見飽きたモデルに還元して事足れりとする研究への不満とも、無関係ではないように思われる。

必ずしも遠いとは言えない学問分野(とはいえ僕は「クィア研究」の人間ではないと思うのですが、それでも近くはある)における出来事であったこともあり、そしてこの件に怒っている(残念ながらさほど多いとは言えない)人々の声を目にしたこともあり、悶々と考えている。「構造」に目を向けるとは、このようなことではないのでしょうか。それは事象の個別性を否定したり、後回しにすることではないはず。


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