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インシャ・アッラーの世界

イスラーム教徒と話しているとよく「インシャ・アッラー」という言葉が使われます。何もアラビア人に限らず、マレーシアやインドネシアのイスラーム教徒もこの言葉をそのまま使うのですが、日本人にとってはなかなか理解し難い意味でして、これを使われた場合は約束が果たされないことが多いと感じるのは僕だけでしょうか。

■インシャ・アッラーとは

 この言葉の意味は「神の思し召しがあれば」または「願わくば」といった意味になります。将来の出来事に対して付言的に使われます。

 この言葉は日常生活でもよく使われます。これまでに僕が実際に聞いた会話からまずは意味を理解していただければと思います。

病院のカウンターでの会話
患者の担当者:あの資料を忘れずに明日ここに置いておいてね。
カウンターの人:わかりました、インシャ・アッラー

職場での会話
上司:明日までにこの資料を作成しておいてください。
部下:承知しました、インシャ・アッラー

約束するときの会話
Aさん:明日午後2時に##で会いましょう。
Bさん:わかりました、インシャ・アッラー

 だいぶ簡単な会話の中にもインシャ・アッラーが出てきますが、「神の思し召しがありましたら、そうします」ということなんです。日本人の間でこんなことを言われたら、もう接してもくれなくなりますが、イスラーム教徒間では常識的な考えなのです。

 特に個人的に会うため、約束するときにこの言葉が使われたら要注意。まず、時間通りには来ないか約束自体が無くなる可能性が高いです。

 つまり、例えば、約束時間を午後2時にしたとしても雨が降ったり、渋滞や事故が発生したりするとその時間に間に合わずに遅れたりします。この予測不可能な事態のことで遅れるのは「仕方がない」ことになりますが、イスラーム教徒は予め「インシャ・アッラー」と言っておくことで「遅れたりいけなくなったりする可能性があります」と宣言しているとも解釈していいのだと思います。そこにはその約束を果たすために努力するというのは微塵も感じません。

■この言葉の奥にある意味

 イスラーム教という宗教(これが宗教といっていいのかどうかは別に論じたいと思います)は、人間は何もできず、神の力によって生きさせられているという考えが根本にあります。なので、予測不可能な事態もすべて神によるものであって、人間が予測できるものではないのです。

 日本人だと電車が遅れて約束時間に遅れたとしてもどこか自分に責任があるように感じてしまいます。実際、僕も日本にいたときはそうでした。特に東京では人身事故がよく発生するので、約束の予定時刻よりも早めに到着するように時間を調整していました。これはおそらくどの日本人もやることでしょう。

 しかし、イスラーム教徒にとってそういった配慮はほとんどしません。例えば、車で15分ぐらいで渋滞なく着ける場所であれば、その所要時間で車を走らせる。ところが途中で渋滞にはまってしまって遅れるケースが多々ありますが、「渋滞が発生するだろう」ということはどうもその人の頭の中からは除外されているのです。最近はグーグルで渋滞が発生しているところは確認できますが、予めそれを確認する人はほとんどいないと言っていいでしょう。雨が降ると遅れるというケースもそうですが、「きょうは雨が降るかもしれない」とは考えない。天気予報なんてチェックしないのです。

 そういった事象はすべて神による行為であって、人間は知るよしもない。神による行為には何らかの意味があるのであって、それに人間はただただ従うしかスベがないともイスラーム教徒は考えています。

 上記の職場の会話で資料作成が明日できなかったとしてもイスラーム教徒は自分の責任とは考えません。例えば、コンピューターの調子が悪くなったり、体調が悪くなったりするのは自分が悪いわけではないからです。日本人だと這ってでも何がなんでも締め切りに間に合わせようとしますが、イスラーム教徒はいろんな事情が発生することから、ただただそれに従っているだけなのです。要は完全にあらゆる事柄に対しては受け身なのです。

 それでも資料作成がまったくできないわけではなく、一応彼らは努力はします。ただ、決められた期日までには間に合わないというだけで実際には作って出してくるのです。それが翌日か2日後かはこれまた神のみぞ知る。資料作成が期日通りであっても、期日より遅れてもいずれも神の思し召しによるものになります。

 この言葉、最初に僕が知ったときには「なるほどなあ」と思ったものです。日本人はすべての事柄をコントロールできる、コントロールさせるといった考えで物事を進めます。一方で、イスラーム教徒はそもそもコントロールなぞできないという前提で物事を進めるので、日本人からするとイライラする。

 しかし、ここで怒ったところで仕方ありません。彼らの物事の進め方はそこに根ざしているので。日本人の考え方もそれはそれでいいのかもしれませんが、昨今の自動車会社の不正事件を見ると、果たしてそれでいいのかとも思うのです。利益確保を優先した結果、ああいう不正がはびこってしまったのでしょうが、インシャ・アッラー的な考えがあれば、あんなひどい不正事件は起きなかったのではないか。

 また、インシャ・アッラー的な考え方が日本人にはほとんどないため、うつになる人も多いのではないでしょうか。外的要因に押され、すべてのことに自分に責任があるような考えでは、うつに陥ってしまうのは当然です。そもそも自分ではコントロールできないことは世の中にたくさんあり、それに対して自分に責任があるように考えていては、いくら体があっても足りません。

 「仕方がない」という言葉が日本語にありますが、このインシャ・アッラーはこの「仕方がない」という言葉にも通じるような気がします。何かが発生して自分が思うようにいかなかった場合、「仕方がない」と日本人は思うのですが、「神の思し召しによって思うようにならなかったなら仕方がない」。イスラーム教徒も極端にいえば「仕方がない」状況で生きているといってもいいでしょう。
 
 イスラーム教徒と付き合う方は、この言葉が出てきた場合「仕方ないなあ」という感じでいてください。彼らは悪気があって言っているわけではなく、神がそういう環境を作り出さなかったから結果としてそうなるのだと本気で考えているので、そこを怒鳴っても意味がありません。

 インシャ・アッラーは便利な言葉ではありますが、言われたときにはまずは「十中八九、約束は果たされないのだなあ」と腹をくくるしかありませんが、約束が果たされればそれはそれも「神の思し召しによるもの」。アッラーなくしてはこの世は存在しません。
 

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