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ジョホールで虎を狩った殿様

大正末期から昭和初期にかけてジョホール王国を2回訪れた日本の殿様がいます。尾張徳川家第19代当主で候爵の徳川義親氏です。ジョホールで虎狩りをしたため、「虎狩りの殿様」とも知られていますが、果たしてどういう経緯でジョホールに来たのでしょうか。

殿様の正体
 徳川義親氏は1886年に福井越前藩の松平慶永(春嶽)の子として生まれました。22歳のときに尾張18代の徳川義礼氏の長女と結婚し、養子となりました。その後に東京帝国大学(現在の東大)を卒業したものの、植物学を勉強するため再び同大学に入学。その頃に貴族院議員にも就任。その後は徳川林政史研究所や名古屋の徳川美術館を設立したことでも有名です。 

 義親は「熊狩りの殿様」として日本で大変有名でした。尾張徳川家は明治維新後、旧家臣の行く末を案じ、約80人を北海道・渡島半島の八雲町に住まわせて生計を確保させるために開墾事業を行いました。作物の栽培や家畜を飼育するなどしていましたが、付近には頻繁に熊が出現。このため、義親は1917年ごろから毎年3月になると猟銃による熊狩りを実行したのでした。これが日本の新聞でも話題となり、いつしか「熊狩りの殿様」として有名になったのです。

 その義親がマレー半島に初めて来たのは1921年。じんましんが悪化し、治療のため温暖の地に行くことを医師に進言されました。医師はハワイを勧めましたが、ハワイは多くの日本人が移民しており、義親は「皆が行くため」としてハワイに行くことを嫌がり、代わりに南国のマレー半島とジャワ島を選びました。

 日本から船に乗ってシンガポールに行き、ここを拠点にしてジョホールをはじめ、トレンガヌ、ジャワ島を3カ月ほど周遊したのでした。
 

狩りに行く
 19世紀から20世紀前半までマレー半島一帯ではさまざまな野生動物が生息していました。虎やヒョウ、ゾウといった動物も人家近くに出没し、人々を困らせていました。ちなみに、シンガポールのオーチャード通りでも1848年に虎が出現し、人を食い殺す事件も発生しています。1870年代にマレー半島を旅行した英国の旅行家イザベラ・バードも虎の咆哮をよく聞いたことを旅行記に記録しています。

 マレー半島の当時の農園では、虎やゾウによって一旦被害が出ると従業員全員が逃げてしまうといった二次被害も発生し、経済にも悪影響を与えました。このため、マレー半島の各王国は野獣の捕獲に報奨金を出す措置を取っており、狩りを奨励していたのです。

 ジョホールの場合も例外ではありませんでしたが、当時のジョホールのスルタン・イブラヒムは無頼の狩猟好き。一般人には野獣捕獲はさせず、王国内にあった「主猟寮」が取り仕切りました。野獣が出ればここに通報させる仕組みを作り、職員を出動させていたのですが、スルタン自らが狩猟することも頻繁にありました。1920年代初頭までにはスルタン自身が射ったのは虎40頭、ゾウ29頭。英国王室にも献上するなど世界でも有名な狩猟家だったのです。

 世界も旅したこのスルタンは、日本で話題となっていた熊狩りの義親についてニュースで知っていたそうです。義親はシンガポールに到着した後にジョホールを訪問してスルタンに謁見。この数日後に偶然にも虎が出没したため、スルタンの誘いを受けて虎狩りに同行することになりました。

虎狩りの決行
 スルタンは義親らとともに列車でスガマ駅に行き、車でムアー市の東南20キロにあるパリ・ジャミル村付近に向かいました。狩りは大規模で、兵士22人、犬14匹、獲物を追い立てる勢子約200人が伴いました。勢子らが爆竹などで虎を追い込み、義親は虎を発見して発砲したものの、初日は失敗に終わったそうです。

 翌日にまた同じ場所で勢子の追い込みが開始されてから2時間後、義親は再び虎を発見。虎は威嚇し、本人の2メートルほどのところまで襲いかかってきたとのこと。しかし、義親の『じゃがたら紀行』によると、虎は飛びかかろうとしたものの、不思議にも右によけ、逃げたといいます。そこへ義親はすかさず撃ち、仕留めました。虎は約3メートルほどもある大きさで、翌日の朝食で「ビフテキ」ならぬ「トラテキ」にして食べたと記録しています。

 義親はこれに続いて、ゾウの狩りも行いました。ゾウは農園を完全に踏み荒らし、人も殺すため、「危険な厄介な始末の悪い害獣」だと指摘しています。虎刈りの翌々日に義親はスルタン側近らとブキ・クポン郡のボンボン村に赴き、付近一帯を荒らすゾウの群れを発見。10メートルほどの距離で対峙し、怒って襲来するゾウを撃ち抜きました。ゾウの身長は約4メートルほどだったといいます。

 この果敢な狩りがのちに日本にも伝わり、「熊狩りの殿様」から「虎狩りの殿様」とも知られるようになったのです。

 義親は1929年にもジョホールを訪問し、再び狩猟を行いました。このときは長男も連れての訪問で、ワニ狩りも行ったといいます。

スルタンとの交流
 英語やドイツ語に堪能だった義親は、ジョホール・スルタンと虎狩りを機に親しくなりました。義親を通じて日本のビジネスマンにジョホールでのゴム農園への投資を奨励し、1934年には義親の招待でスルタンは日本に訪問しました。

 このときまでには義親は甲冑一式をスルタンに献上しており、これが現在でもジョホール王宮に収められています。

 第二次世界大戦時にはマレー半島に赴任したい旨を陸軍に伝え、1942年には軍事顧問としてシンガポールに着任。ジョホール・スルタンと懇意であったため、この人脈を買われ、マレー半島のスルタンを取りまとめて統治する任務を主に担いました。 

 この時代に義親はマレー語も習得したようで、1942年には『馬来語四週間』というマレー語の会話を含む書籍を発行。戦前のマレー語はアラビア語表記のジャウィでしたが、ローマ字表記でマレー語文法の説明をした画期的な日本語での文法書となりました。また、戦中にはマレー人留学生を東京の義親の自宅に住まわせるなどマレー人に対して好意的でした。

 戦後、義親は公職追放となりましたが、起訴は免れました。ジョホール・スルタンとの交流は戦後も続いたもようです。スルタン・イブラヒムは1959年に薨去し、義親も1976年には死去しましたが、長男の徳川義知氏は1977年に日馬友好親善に尽くしたとしてジョホール州から最高勲章を授与されています。

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