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禍話「面霊気」

 今ではかなりご高齢の、ある人の子供の頃の思い出である。


 彼女の家には喋るお面がいたという。玩具などではない、それ自体はただの木彫りの古めかしいお面。見た目としては能などで使われる翁の面をもっと誇張した笑い顔にさせたような造形だったらしい。

 それが言葉を発するのである。

 先程、喋るお面が「あった」ではなく「いた」と書いたのは、彼女によるとそのお面 ―― 彼女は“そいつ”と呼んだ ―― が、まるで家の一員のように振る舞っていたからだ。父、母、祖父母、彼女、そして“そいつ”。六人目であるかのような扱いで、そのお面は彼女が物心付いたときから当たり前のように家の中にいた。


 彼女は“そいつ”が大嫌いだった。“そいつ”があまりにも尊大で底意地が悪く、またどうしようもなく口汚かったからだ。暇さえあれば口を開き、ひどく耳障りなざらざらした嗄れた声で、 ―― 彼女はラジオに例えていた ―― 高いところから母や祖母を罵っていた。あるいは日々を懸命に働く父を嘲り、病がちな祖父に対してはあろうことか早く死ねなどと言うことも珍しくなかった。もちろん彼女に対しても例外ではなかった。事あるごとに“そいつ”に呼びつけられ、藁でよく分からない輪っかを作らされたり、指が痛くなるほど臭い土を捏ねさせられたり、用途の分からない雑事を命令された挙げ句、それらを自分で捨てさせられたりした。そして、彼女がいかにこの家でお荷物か、望まれない子供かなどといった説教を延々とされるので、たまったものではない。

 不思議なことに家族の誰も、“そいつ”の理不尽な振る舞いに反抗どころか反論さえしようとせず、どこか諦めたかのように従っていた。

「絶対に逆らってはいけない。言われたことには従わなければいけない」

 彼女も噛んで含めるように言い聞かされた。その時に母から、うちのずっと昔のご先祖のやったことで大変な咎を負ってしまった。その報いなのだから、お前にもすまないんだけれど、と悲しそうに謝られたそうだ。彼女は子供ながら、そんな家族の姿に悶々としたものを感じ、やりきれない思いを抱えていた。


 ある日のことである。父と母が外へ出かけ、祖母が二階で病気の祖父の看病をしていた。彼女は“そいつ”に命令されて、枯れ枝の皮を延々と剥く作業をさせられていた。その時、寒風吹きすさぶ外から、先に母が帰ってきた。小柄な体で、やっとの思いで家族のための燃料を調達してきた母が、息を吐きながら裏の框から上がるなり、“そいつ”は不機嫌そうに声をかけた。そして母をその場で正座させ、いかに母が愚鈍で無能で役立たずかを粛々と語りかけ始めた。天井近くから降ってくるその声は、耳の奥を沢山の細かい爪で掻き毟るような調子で、凄まじい不快さだった。

 何もできず見つめる彼女の前で、声はだんだん上ずってくると、正座だけでは飽き足らず、母に土下座を命じた。

 防寒具を外され、氷のような床に付いた母の手が真っ赤に悴み、擦りつけた額の皮膚が破れて薄い血が滲んでいる。小一時間そんな光景が続いたあと、最後に“そいつ”は命じた。

「燃料を捨ててこい」

 はっとして顔を上げた母が、さすがに何かを言いかけたが、ぐぅっ、と蛙のような声を喉から絞り出して黙り込み、ゆっくりと今持ってきたばかりの竹籠を、真っ赤な手で持って立ち上がった。そして、びょうびょうと風の鳴る外へ、話しかけようとする彼女の隣を横切って出ていく。睫毛の抜けたその目からぼろぼろと涙が出ているのを彼女は見た。

 その瞬間、幼い彼女の中で何かがぷつんと音を立てて切れた。

 ばたん、と戸が閉まると同時に、彼女は持っていた枯れ枝を放って立った。“そいつ”が罵倒を投げてくるのを無視して、部屋の隅に転がっていた古い大きな台のところへ行くと、引きずるようにして“そいつ”の下へ持っていく。罵倒の声は変わらず響いている。ぎしぎしと音を立てて彼女は台の上に立った。

 手が届く。

 小さな手で、木彫りの面に手を掛けた。見上げると、“そいつ”の穴のような両目の上からふさふさと出た白い眉の毛がまだらの灰色になりかけていて、「汚い」と思ったのを覚えているという。“そいつ”は金切り声のような叫びを上げたが、そのまま彼女は壁から面を引き剥がした。

 思いの外簡単にそれは外れて床に落ち、そして、その裏にあったものを見て、彼女はぎゃっ、と声を上げた。


 巨大な蛾だった。


 大人の両手を合わせたよりも大きな真っ白い蛾が、壁にぴったりと張り付くようにしてそこにいた。それが、面から出た眉にそっくりな所々灰色に染まった羽を、

 …ばばばばばば、ばばばばば…

と微かに細かく震わせており、その振動が

 …去ね…ばばばばば、…ね、去ね、うぅ、…ね、ばばばばばば、去ね…

“そいつ”のあの耳障りな声になっているのだった。見てはならないものを見てしまったという子供ながらの直感と、本能的な嫌悪感、危機感に駆られた彼女は、側にあった台から粉の敷き紙代わりにしていた厚紙をひったくって丸めると、渾身の力で目の前の壁に叩きつけた。

 ばちゅっ、ぶちゅっ

嫌な感触と共に、厚紙の向こうで

 …ぎゃばばばじじじじゅじゅじじじじじ…

末期の苦悶のような羽音が断続的に響いて、やがて静かになった。静かになると同時に、床に落ちていた面もなぜかそのタイミングでびしゃっ、と割れて粉々になってしまった。



 それからの記憶は曖昧なのだそうで、そもそも六つになるかならぬかの頃の記憶の話で、“そいつ”が家にいた生き地獄のような日々だけがなぜか鮮明なのだという。ただ、大変なことをしてしまった、とぼんやりと考えていた彼女の予想に反して、母を始めとする家族は、驚き愕然としこそすれ、怒るのではなくむしろ喜び合ったのだそうだ。

 その後、近隣の神社やら拝み屋のような人のところへやら色々と連れて行かれたような記憶もあるが、いずれもさして大事にはならず、それから“そいつ”のいない日常が始まったのだと彼女は言った。後年、何かの勘違いか夢ではなかったかと思いつつ、どうしても折に触れて思い出すので彼女が年老いた母にそのことについて尋ねたら、

「…あぁ、あれはいやなものだったねぇ…」

しみじみ呟いたので、本当にあったことだったのだと驚いたらしい。母親は、あの面は竈の上に掛けていたという、彼女が覚えていなかったことまで教えてくれた。

「あれは本当に畏れ多いものでねぇ。どうしようもないものだったから諦めていたんだけどねぇ。実はこっそりお祓いしようと思ったんだよ。それで、やってみたんだけど全然駄目だったんだよ。おじいちゃんが病気になっちゃったのもそのせいでねぇ。…だから、まさか小さなあんたがどうにかしてくれるなんて思わなかったよ」

 母は結局、その面の来歴や彼女の言う咎については話してくれなかったが、どうやら近所の神社やお祓いではどうにもならないくらいには厄介な存在だったらしい。「七つまでは神のうち」という言葉があるように、まだ神と人の間と言われるくらいに彼女が幼かったからそんなことができたのかもしれない。

 彼女は現在ご高齢ではあるが、あまりお化けや幽霊などを信じてはいない人で、この話を聞いたときも、彼女自身は「あれは本当は厄介者の遠縁の男か何かが家に住み着いていたのを、自分の記憶が入れ替わって勘違いしているだけだろう」と解釈していた。彼女の母親が気を遣ってお面の話にしていたのを、幼い彼女が信じ込んでそんな記憶を作り上げたのだ、後年、年老いた母親に尋ねたときも彼女に合わせて話をしてくれたのだ、と。彼女はそのように信じている。

 ただ、お面の裏にいたあの大きな蛾のイメージと、潰したときの感触だけは未だに生々しく残っていて、心のどこかでは勘違いだと断言できずにいるのだという。


おわり



※このお話は、怪談ツイキャス「禍話(まがばなし)」から、一部を編集して文章化したものです。

※出典 禍話X 第十三夜 2021年1月16日放送
余寒(よさむ)さんの怪談手帖「面霊気(めんれいき)」

(0:40:06ごろから)


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