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禍話「なにかが来た話」


知り合いのOLさんから聞いた話だ。


彼女曰く、住まいのマンションには特にそれまで何も変なことはなかったという。管理人付きで玄関はオートロック、住民同士も関係は良好、防犯的にも人間関係的にも安心安全なマンションだ。

梅雨明けが遅く、しとしとと雨が降り続く季節のことだった。

彼女はお風呂ではきちんと湯船に浸かるタイプだった。その日も仕事から帰るとお風呂を沸かし、入浴剤を入れて、いつものように湯船に浸かった。長風呂派なので、さてこれからゆっくり疲れを取るか、と湯船で伸びをしたところだった。


ガチャガチャ!ガチャガチャガチャ!


突然、乱暴に玄関のドアノブを回す音が響いた。聞こえ方からして、自分の部屋のドアノブを回されている。このマンションは普段、外廊下の音が響くので、それまで足音が全く聞こえなかったのが不思議だった。彼女に恋人はいるが、合い鍵も渡しているし、来るなら事前連絡のひとつもある。しかし、ドアの前の何者かは無言のまま、ひたすらドアノブをガチャガチャと、まるで警備員が確認しなくてはならない部屋のドアを必死に開けようとするかのように回し続けるのだった。


それは体感で五分ほどだったろうか。その後、ぴたりとドアノブを回す音が止んだ。静かにはなったが、次は何が起こるのかと彼女は身構える。

彼女の部屋は玄関の隣がトイレという間取りだ。トイレの換気窓は外廊下に面しているのだが、今度はその換気窓が、


ドンドンドンドン!


と叩かれた。彼女は心の中で悲鳴をあげる。何者かが今度は隣に移動して、トイレの窓を無理やり開けようとしている。しかし当然、窓の外には格子が嵌めてあるので、トイレの窓が開いたとしても小動物くらいしかそこを通れないはずだ。が、窓をひたすら開けようとしている誰かがいるという事実だけで充分、不気味で恐ろしい。


何者かは、トイレの窓でも五分ほど粘っていたようだったが、それもやがて静かになった。となると次は、その隣…。この風呂場の窓だ。だがこの窓にも面格子がついており、開いたところで人は侵入できないはずだ。

彼女は極力物音を立てないよう、息を潜めて様子を伺った。尤も、浴室の電気がついているのですでにここにいるのがバレているかもしれないが。


ガタガタガタ!ガタガタ!


やはり、今度は風呂場の窓が揺すられた。また無言の誰かが窓を開けようとしているようだった。

彼女は湯船で身を小さくして、ぐるぐると思案していた。

オートロックで完全防備かと思っていたこのマンションにも、不審者が出てしまったか。これはもう、お風呂を飛び出してしかるべきところに通報しないといけないな…。



そのとき、外廊下に足音が響き、人の気配がした。


男女が話しながら歩いてくる。話し声やレジ袋が擦れる音が聞こえる。会話の内容から、どうやらコンビニ帰りでこれから家飲みをするカップル、といった雰囲気だった。雨が降ってずぶ濡れでどうこう、相合傘が傾いていたから肩が濡れた、などという他愛もない会話や、笑い声が聞こえた。

彼女はまた思案する。

確か、近くの部屋に学生さんが住んでたっけ。飲み会か何かがあってその流れで彼氏も一緒に来たのかな。っていうか、この廊下を通る人がいたら今まさに人んちの窓をガタガタしてるやつ、どこかに隠れたり逃げたりするよね?


しかし、ガタガタと窓を開けようとする音はずっと続いていた。


カップルの話し声はどんどん彼女の部屋に近付いてくる。声の感じからして、カップルの男のほうは不審者を見かけたら注意してくれそうな雰囲気がある。何してんですか、とか言って、こいつを強めに注意してくれないだろうか。


外廊下にいる不審者と鉢合わせてもおかしくない距離までカップルの話し声が近付いてきた。だが、相変わらずカップルは、度数高めのお酒買ってきちゃったけど大丈夫かな、といった緩い雰囲気の会話を続けている。


え?

ということは、この窓をこじ開けようとずっと頑張っている不審者が、カップルには見えていないのだろうか?こいつは不審者じゃなくて、見えない何かとか、そういうこと…?


彼女は混乱した。



そこまで聞いて、怖すぎてこれ以上はもういいです、と冗談で聞くのを止めようとすると、

「いや、この話はここからなんですよ」

と彼女は言った。


「そのカップルがね、ガチャ、って鍵開けてね、私の家の中に入ってきたんですよ。『ただいまー』とか言って」




そんなカップルは友人にはいないし、万が一、下の階の同じ位置の部屋とうちの玄関の鍵が同じだったとして、部屋の感じも違うだろうし、そこで気づくはずだ。そんなことを彼女が考えている間にも、カップルの男のほうは、足元が濡れてしまったから靴を脱ぐのに時間が掛かる、というようなことを玄関で呑気に話している。


その間もずっと、風呂場の窓はガチャガチャと揺すられていた。


カップルが玄関で傘の水滴を払ったり、服を拭いたりして、玄関のドアが閉まるか閉まらないかというときだった。それまで男と和やかに話していたカップルの女のほうが、明らかに“外廊下にいるもの”に向かって吐き捨てるように言った。


「かわいそうだね、死んでるってことに気付いてないんだもんね」


バタン!


玄関のドアが閉まる音がした。その瞬間、風呂場の窓の音がぴたりと止んだ。彼女はすぐに風呂場の窓を開けて外を覗いてみたが、誰もいなかった。

窓の音は止んだようだ。だが、次の問題が発生している。知らないカップルが自分の家に入ってきてしまっているのだ。

「あのー、すみません!部屋、間違えてませんか?」

風呂場から声をかけてみる。返事はない。

「ちょっと、出ますよー?私、女ですよー?」

ここ自分の家なのになぁ、と思いながら意を決して浴室から飛び出す。


誰もいない。
ただ、玄関がぐしょぐしょに濡れていた。
雨の中帰ってきて、玄関で部屋に上がる支度をしたら丁度これくらいかな、という濡れ具合だった。


もう長風呂どころではなくなって、その日は近所の友人の家に泊めてもらったそうだ。彼女は今でもそのマンションに住み続けているらしいのだが、不可思議な現象は後にも先にもその一度きりだったという。

「あ、ただ――」

その後しばらくして、こちらからは何も言っていないのに、管理会社が全額費用負担をしてドアと窓を全部取り換えてくれたことがありました、と彼女は言った。もしかしたら、外廊下にも防犯カメラがあるので、何かおかしいものが映ったとかじゃないですかね、まあ全部新品になったしよかったです、とケロっとしていた。

おわり



※このお話は、怪談ツイキャス「禍話(まがばなし)」から、一部を編集して文章化したものです。

※出典 ザ・禍話第十九話 2020年7月25日放送

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