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ゲゲゲのゲマインシャフト

 徒然なるままに。あのですよ。日本語で共同体っていうのをドイツ語にするとゲマインシャフト- Gemeinschaftとなるのですが、共同体をフランス語にすると コミュナティ-Communautéで、英語だったら コミュニティ- Communityで、スペイン語だったらコムニダッド-Comunidadで、イタリア語だったらコムニータ-Comunitàで、ポルトガル語だったらコムニダージ-Comunidade、オランダ語だっらゲメインシャップ-Gemeenschapだそうです。ドイツ・オランダチームと、イギリス・フランス・スペイン・イタリア・ポルトガルチームとあるんだけどね。どうしてこれ、ドイツ・オランダはゲマインシャフトなのかね?と思ってネットで検索。

 コトバンクによると共同体とゲマインシャフトの違いは「テンニースの著書《ゲマインシャフトとゲゼルシャフトGemeinschaft und Gesellschaft》(1887)でゲゼルシャフトGesellschaft(利益社会あるいは派生社会と訳される)と対比しつつ,純粋社会学の根本概念とされた。テンニースは人間の共同生活における集合形式,関係形象,規範,価値の研究を社会学としたが,実在的・自然的な本質意思Wesenwilleと観念的・作為的な選択意思Kürwilleとを区別し,前者にゲマインシャフト,後者にゲゼルシャフトという集団類型をたてた。」とのこと。

 ふーん。考えちゃうのは、ゲマインシャフトという言葉は、ゲゼルシャフトという言葉が作られる以前から存在したのかな?っていうこと。テンニースによってゲゼルシャフトという、観念的・作為的な意志を持った人間の集まりがあるよねってはっきりした時に、その対比として共同体-ゲマインシャフトという、血縁や土地に由来するつながりをもとに自然発生的にできている人間の集まりがそもそもあったよねってはっきりしたのでしょうかね。どっちだろう?

 テンニースはドイツの社会学者だから、ドイツ人は共同体って言ったらテンニースのゲマインシャフトのことでしょって思ってないかな…
オランダも学問的にドイツの社会学による人間の集まりの区分の方法に賛同しているのでおそらく共同体という人間の集まりをゲメインシャップってちょっとドイツ寄りの単語にしちゃってるんでないかな…  知らんけど。

 そんで、日本人の私にとっては、ドイツもフランスも遠い国なわけ。そんでしかも、時代によって国の領土が大きく変わっちゃってたりするし、ちょっとどこまでがドイツでどこまでがフランスかはっきりわからないところがあるんだけど、おそらくアルザス・ロレーヌという地理的な分水嶺があるにもかかわらずそこも、フランス語圏だったりドイツ語圏だったりしてどこまでがフランスなん?プロイセンやったゆってもドイツが広すぎと違う?スイスはドイツなのそれともフランスなの、いやスイスだろう。スイスに違いないと改めて意識しないとわかんない。というのがあって今でもヨーロッパ中部の国境がよくわからない。さすがにアルプスは高すぎなのであそこから南はイタリアだというのがはっきりわかるんだけど、それでもハンニバルがアルプス超えをしてローマに入ったってすごい歴史があったな…

それはそれとして、あのですよ。共同体は、っていうことなんですけど。共同体はフランス語ではCommunauté。日本人の私としては、フランスの市民革命の歴史とこの言葉の関係性を考えてしまうんですね。フランス語圏の人だって、テンニースの社会学のことは知っているし、彼の人間の集まりについての分け方に賛成の人はそれっぽいフランス語を作っちゃってるのかもしれないですよ。よくわかんないけど、例えば、monnitéとか。mon私の、nité集まりっていう単語など…  ないんですけどそんな単語。あと英語寄りに考えるとCommunication。市民社会の形成に最も大切なことがコミュニケーションあるいは対話ではないでしょうか…

 共同体は社会とほとんど同義語ではないのだろうかと私には思えるのです。社会も共同体も同じ意味を持っているとしたらなぜ使い分けているのかということをさらに考えています。多分、共同体-Communautéというと、国や血のつながりを超えて、本当に理念や理想、運命を共にできる友の集まりっていうかんじがします。「運命を共にする」っていうところの違いは大きですよね。社会は運命を共にする人々の集まりだろうかと考えると、なかなかそうは考えにくいですね。社会というのはもっと例えば、営利目的のために集う会社やあるいはNPOのような社会福祉を目的として活動する人の集まりを想像します。

 私はここをもう一度、かつては血縁や土地によって自然的発生した共同体を、意識的な共同体づくりへと変えていく時代になったのだと考えています。UBIや地域通貨について考えているのも、運命共同体としてのっていうとなんだか漠然としちゃいますね。もっと違う言い方ができないかなと思うんですけど、あなたが絶対に必要なんだとお互いが思える人の集まりをもう一度取り戻すこと。運命ってそういうことなんじゃないかなと思います。赤の他人さまであっても、運命の良き計らいによって精神的に時には物質的にもお互いに必要とされる場面があること。今の世の中はすごく人間関係がさっぱりしすぎてて、特にお金が間に入ってくるとお金で済ませられることはお金を使って人とは関わらないままということも往々にしてありますよね。

でも、お金がなかったら、人に頼らざるを得ないし、人と人がつながって団結して一緒に活動していくしかないし、苦しい時も一緒、嬉しい時も一緒という時間がすごく増えますよね。そして、その苦楽によって信頼が生まれると思うのです。それが運命のような気がします。願わくば、資産のある有徳な起業家が、資産を分配してくれることによって、友愛の経済による意識的な共同体を形成すると思ってくれること。国家がそれを行うには、まだ十分に倫理的でないので、国は容易くUBIの貨幣の力によって国民を国家の意のままに操ってしまうことになりかねなく、そのようなことはすでに社会主義の崩壊によって私たちは辛い経験として味わっていますよね。資本主義はその本質に変更を加えながら、略奪する資本主義からやさしい資本主義へと移行するのかもしれない。そんなふうにも考えます。

 そんで、実際のところ、アメリカでは民主党は新自由主義についてどのような立場なんだろうって思って。いや、アメリカの持っている市場が大きいから、どうなのかな〜って思って。民主党も新自由主義でおしてたら、公共性や公共福祉がどんどんなくなっていくからUBIも地域通貨もないだろうな〜って思って。ChatGPTに話し相手になってもらいました。

 なので、昨日から徒然なるままに書いてみた経済の話は、意識的な共同体形成と地域通貨の運用というところまで、真夏の酷暑で考えた私なりの一つのテーマとして集約されました。いつかまた続きを書いてみたい。


コロナパンデミック前に、大分美術館のラウンジでぼーっと座ってコーヒーを飲んでいたら同級生のエリちゃんが私を発見してくれて、自分の家に作った茶室に案内してくれ、お茶を淹れてくれた。こんな贅沢な時間が思わず手に入ることもあるんだなと嬉しかった。人と人がつながるって大切だなって思うのは、自分では実現できないことも誰かの恩恵で実現可能になることもあるから。


お父さんの生家は大分の杵築にある。すごいボロ家でネズミしか住めない、そこを改装して引っ越せるようになった。お父さんのお姉さん、妹さんつまり私の叔母さんやその家族が杵築の土地と家を私に譲ってくださったから。ありがとう!!!本当に嬉しい。この人生の最後まで杵築に住むつもり。家も改装できたら、親戚にいつでも遊びに来てほしい。庭にはかぼすの木をお母さんが植えてくれていて、毎年、夏に収穫できる。このカボスも購入したら2kgで¥1,000くらいはかかるのをタダで食べれている。自然から商品を人間は受け取っているという言葉のリアリティを実感せざるを得ない。改装が終わって、引っ越せたら庭で薬草園、畑で米を作るんだ〜